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10周年記念旅行と節目の年、イタリア語教育・学習

 アブルッツォ旅行に先週旅立ったのは、10年目の結婚記念日を旅先で迎えて祝う、記念の旅だったからです。

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 とは言え、撮ってくださいとなかなか頼めず、二人の写真を自分たちで撮ろうとすれば、こんなふうに夫に腕を伸ばしてもらうしかないため、1週間の旅行中、唯一まともな二人の記念写真は、アッペンニーニ山脈でもっとも大きいというボレッロ(Borrello)のこの滝、Cascate del Rio Verdeの前で撮影したものです。

 でもそれが、いろんな意味でわたしたちらしい気がします。

 今年は結婚10周年、日本で高校教師の職を辞して、イタリアに渡ってから15年で、12月には50歳を迎えます。

 夫には自然の美しさや緑の中を歩く楽しさなど、いろいろ教えてもらいました。48歳で亡くなった母のその年を越え、目や歯、肩に次々と不具合が生じてはいますが、元気でいられることをありがたいと思い、自分の生き方や仕事を見つめ直す機会にしたいと考えています。

 大学4年生のときに母を亡くし、卒業後すぐに教え始めた高校で、教育について指導してくださった恩師が、3年目が終わろうというときに44歳という若さで突然亡くなり、12年間高校で教えて、30代になったわたしは、国語を高校生たちに教えることは大好きだったものの、「もしあと10年しか生きられないとしたら、わたしは何がしたいだろう。自分の新たな可能性に挑戦してみたい」という思いが募り、その数年前から興味を持って勉強し始めたイタリア語を十分に学ぶために、イタリアに留学しました。教えるのも好きでしたが、たとえば特に古文や漢文を教えるためには、教材について調べること、研究すること、また指導法をあれこれと考えることも大切で、教えながら、自分が学ぶこと、特に言語や文学を学ぶこと、研究することがとても好きで、熱中すると寝食も忘れてしまうことに気づいたからでもあります。また、高校教師として働く傍ら、わずかな自由時間を活用して、ヒアリングマラソンを受講し、英語の読書を続けて、実用英検1級に合格し、英日翻訳やイタリア語上級の通信教育を終え、イタリア語の本も少しずつ読み始めるなど、自分が外国語の学習が好きで、かつ実力をこつこつとつけていけることを確信していたからでもあります。

 イタリアに来て、まずは半年マルケの立語学学校で、そうして、それから、ペルージャ外国人大学のイタリア語・イタリア文化講座で、どちらも上級講座でしたから、イタリア語と共にイタリア文学や美術、歴史などを学び、それは、とても楽しかったのです。けれども、マルケでも、外国人大学でも、先生方の発案で、日本の古典文学についての講座を、ダンテ・アリギエーリ協会のウルバーニア支部やペルージャ支部のために、計3回行ったとき、話すために準備をして、そうして実際に聴衆の前で話しているそのときに、「ああ、今こそ自分が真に生きているな」と感じたのです。一度教職を去ってみて、改めてけれど、自分が教えることが本当に好きであるということに気づいたのです。その後ペルージャ外国人大学では、イタリア語・イタリア文化の外国人教育を専門とする3年の学位取得課程に編入・卒業し、幸い卒業と同時に、5年間、契約講師として、大学の日本語・日本文学の授業を担当することができました。その傍ら、年に2・3か月シエナ外国人大学の外国語・第二外国語としてのイタリア語教授法を専攻する大学院課程も無事卒業したものの、その後残念ながら、ペルージャ外国人大学の日本語の授業が大幅に削減され、中国語やアラビア語の授業が増えて、大学で教えることはなくなりました。幸い、学校や講座、個人授業などで、日本語・イタリア語を教え続けてはいるのですが、実は昨年、イタリアの公立学校の教員採用に関する法制度が変わったとき、わたしもイタリアの学校で、日本語あるいはイタリア語が教えられたらと、法の詳しい内容を楽しみにしていました。けれども、文学部ではなく、教育学部を卒業しているために、わたしが通った愛媛大学で言えば、わたしが通った中学校教員養成課程の国語専攻の方が、ずっと学校で国語を教える資格としてはふさわしいと思うのに、イタリアと日本の大学制度が異なるために、日本語を教えられるための条件が満たせず、また、イタリア語を教えたいと思えば、ペルージャ・シエナの両外国人大学での単位数を合わせれば、かなりのイタリア語やイタリア文学などの授業時数にはなるのですが、わたしが卒業した4年制大学はあくまで日本の大学であり、イタリア語・文学の授業はなかったため、やはり条件に達しません。

 この数年は日本語を教えつつ、イタリア語を個人授業で教える機会もあったのですが、仕事や報酬の数量から言えば、圧倒的に、日本語教育>通訳(伊日・英日)>翻訳(伊日・英日)>イタリア語教育>記事執筆となります。通訳・翻訳の仕事も、語学力を生かすことができ、またさまざまな意味で日伊の架け橋をすることができる上に、講演や企業の訪問・商談・研修・観光など内容がさまざまで興味深く、また、以前にいっしょに仕事をしたことのある方や、ブログをきっかけに、わたしを直接あるいは間接的に知っている方が、仕事を直接頼んでくださったり、依頼するお客さんに紹介してくださったりする場合が多く、感謝しています。ブログを書くのも、毎日書くのは時間を見つけるのは大変なのですが、書くことは楽しく、また書きたいことは尽きぬほどあるため、記事の執筆の依頼もありがたいです。写真を撮ることも大好きです。

 ただ、今自分が一番してみたいことは何かと考えると、日本で長年日本語や日本文学を教えてきた経験と、イタリアで第二外国語としてのイタリア語・イタリア文化教育を、5年間みっちり勉強してきた成果を生かして、日本語・日本文学やイタリア語・イタリア文学・イタリア文化を教えることなのです。

 これも、イタリアでイタリア語教師というと、どうしてもイタリア語母語者が優先され、日本の方が、イタリア語を勉強したいという場合でも、とにかくイタリア語のネイティブ・スピーカーの方がいいと考えがちです。

 でも、そこに大きな間違いが本当はあるのです。

 イタリア料理を食べたい、教わりたいというとき、イタリア料理を専門に学んで研修を積んだ日本人のシェフと、イタリア人で適当に料理もするという人と、どちらの料理を食べたいか、どちらの料理がおいしいか。

 言語はネイティブならだれでも話せる・書けると思いがちで、また、ネイティブがよく知っていると思いがちなのですが、日本人でも、書く文章にら抜き言葉や誤字・脱字が見られ、主述が一致しない文が散見する人は少なくありませんし、しっかり意識を注ぎ、見直しができるはずの書き言葉でさえそうですから、話す際にどれだけ留意をしているのか、敬語がきちんと使えるのか、あやしい人が少なからずいるはずです。イタリアでもそれは同じで、識字率の低下や読書離れ・イタリア語の乱れがさかんに叫ばれ、標準イタリア語の発音がきちんと身についているのは、その特殊な訓練を受けた俳優と、そういう知識を身につけた語学専門家くらいのものだとさえ言われています。と言うのも、イタリアでは、そもそも1861年にイタリア半島が国家として統一されるまでは、国土が政治的に分断され、それぞれの地域で、俗ラテン語から発展・変容を遂げてできた別々の言語が、話されていたため、最近になってこそ、兵役やテレビのおかげで、イタリア語が全国に行きわたるようになったものの、イントネーションや発音には、地域差が大きく、大半のイタリア人が話しているのは、たとえ俗語や方言ではなくイタリア語を話しているときでも、標準イタリア語ではなく、地方イタリア語だからです。

 ですから、言語学やイタリア語教育を専門に学ん人や、特に言語やイントネーションに注意を払う人でなければ、自分の子音や母音の発音、あるいはイントネーションのどこがどんなふうに標準イタリア語と違うのかを待ったく知らないという事態も多々発生します。

 また、イタリアの語学学校に通うのが、一見一番安くて、上達の近道と思われがちですが、それも、少なくとも中級まで、独学で、あるいは日本で学習して、達している場合の話です。

 イタリアの学校で行われるイタリア語の授業は、主に欧米の若い生徒を受講対象のモデルとして考案されている場合が多いと思います。それまでの学習経験ゼロの完全なる入門者を対象とした授業でも、できるだけ分かりやすいよく使われる語彙を使って、絵や写真・教科書・身ぶり手ぶりなどの助けを借りて、すべてイタリア語で行われることが少なくありません。

 それでも、言語の文法や語彙に共通点がある言語を母語とする生徒は、言っていることが理解できる場合が多く、そうして自分でこうだろうなと感覚的に、母語の知識に助けられて、あまりうろたえずに学んでいくことができます。今わたしがすっかり学習をさぼっているフランス語ですが、2012年にパリで2週間語学留学をしたとき、数か月独学でフランス語を勉強したただけのわたしの方が、イタリア語とフランス語の類似に助けられて、日本で4年間フランス語を学んだという留学生の方よりも、理解したり話したりできた場合が、しばしばありました。決して日本のわたしたちが言語を学ぶのが苦手だからではなく、母語である日本語のしくみや語彙が、イタリア語やフランス語と大きく隔たっているからなのです。ちなみに、言語的類型から見ると、日本語と中国語は、イタリア語から最も隔たった言語であると言われていて、そのため、シエナ外国人大学が行うイタリア語検定試験CILSでは、外国に暮らす外国人が受けるA1の試験では、日本語と中国語を母語とする受講者のために、特別に問題を考案したほどなのです。

 最初の段階では、イタリア語と日本語の違いをしっかりと認識し、かつ受講者の必要に応じて、文法に偏らず、柔軟に学習内容を組み立てられる日本人の教師に教わった方が、ずっと習得が早いはずです。

 閑話休題。自分が今一番したいことは、日本語やイタリア語を教えたいということであり、であれば、イタリア人向けの日本語・日本文学についての発信や、発行が滞っているイタリア語学習メルマガの発行を継続的に行い、かつ、ブログの記事で定期的にこうした記事を取り上げる機会を設けなければと感じています。

 ずっと感じているのに、目の前の仕事やノルマに流されて、方向性をしっかり定められていなかったので、この記事をきっかけに、考えを整理してみました。

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Viaggio anniversario dei 10 anni di matrimonio
foto ricordo @ Cascata del Rio Verde di Borrello (CH)
la cascata più grande degli Appennini
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-06-22 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(12)

フランス語版ディーパク・チョープラ21日間瞑想講座、原語の英語つき5月29日開始・オンライン無料

 5月29日月曜日から、フランス語版のディーパク・チョープラ瞑想講座が始まるということで、今から楽しみにしています。つい最近あった英語版は、なんとか通して受講することができました。毎日や人生をより心穏やかに、より豊かに生きるのに役立つであろう言葉や教えに満ちていて、受講することで少しでも、実践ができるようになっていけたらと考えています。

 フランス語版なのですが、まずはディーパク本人による英語の説明があって、それからフランス語訳が入るという形を取り、英語とフランス語の短い文が交互に流れるため、わたしのようにフランス語はまだ入門と中級の間をうろうろしている状況でも、英語を手がかりにして、フランス語に耳を慣らすよいきっかけにもなるかと思います。

 機会があれば逃さずディーパクのいろいろな教えに触れたいことが、一番の受講動機なのですが、ついでに、すっかりさぼっているフランス語の勉強を再開するための起爆剤にもなってくれたらと考えています。

 上のリンク先のログイン場面から、過去のフランス語版瞑想講座の1日分を例として聞くことも可能ですので、興味があれば、ぜひ聞いてみてください。

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15/5/2017

 写真は昨日夕方撮影した庭のバラです。天気予報では晴天のはずが、突然どしゃべりの雨が降ったのでびっくりしました。大輪の花がきれいに咲いていて、つぼみも多いので、これから毎日楽しみです。



*追記(5月17日)
 今日、フランス語版のディーパク・チョープラ瞑想講座のフェイスブックページに、昨日埋め込んだ投稿よりも、講座内容がより分かり、かつよりフランス語の勉強になりそうな投稿がありました。そこで、昨日投稿した分と、差し替えましたので、ご了承ください。

 通常、ディーパク・チョープラの瞑想講座のフランス語版は、フランス時間のその日の0時頃に瞑想講座の受講が可能となり、日々の瞑想講座(1日目、2日目など)はサイト掲載から5日間のみ、無料での受講が可能です。フランス時間の0時は、イタリアでも0時なのですが、日本時間では、夏時間の現在は午前7時となります。

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Foto: fiori di rosa del nostro giardino 15/5/2017

- Lunedì 29 maggio inizia il corso di meditazione di Deepak Chopra in francese; 21 giorni, on line & gratis.
Ormai il mio francese è arrugginito ma poiché nel corso la traduzione in francese è preceduta dalle parole originali di Deepak in inglese, spero di riuscire a seguirlo senza problemi.
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-05-16 22:44 | Vivere | Trackback | Comments(0)

過去・悔いを断ち切り今を、瞑想講座終了

  悔いや恨みというのは、  
  こうであったらよかったのにという
  過ぎ去ったことについての願望であり、
  すでに起こってしまったことは変えられない。
  だから、過ぎたことは過ぎたことと割り切って、
  心を過去の呪縛から解き放とう。

 過去は思い出、記憶の中にしかなく、未来もまだ実現していないのであって、本当に大切なのは、今このとき、わたしたちがこれからを変えていけるのは、今というかけがえのない、大きな可能性を秘めたときを、どれだけしっかり意識して過ごしていくかということなのだとは、ディーパク・チョープラが、今回に限らず、これまでの瞑想講座でたびたび言っていることです。

 そうなのですが、確か昨日の朝聞いた瞑想講座の第20日分を聞いたとき、導入部で語るオープラが引用した冒頭のような言葉が、心に響きました。


 インスタグラムを始めた頃、ディーパクが質問に答えて語る映像が投稿されていたので、見てみたら、なんと、「瞑想講座の間は、メモを取ってはいけない」ということでした。何度も思い返したいような大切な教えや言葉が多いので、それまでは、しばしばメモを取っていて、分厚い瞑想講座専用メモノートまで作って、1冊終えたわたしは、それを聞いて驚きました。確か、メモをすると、その分話を聞くことに集中できなくなるということだったと思います。メモを取っている間は、そのとき話されていることを聞き損なう可能性がある上に、「メモをしたから、また後で聞くことができる」と、聞く態度も気づかぬうちにおろそかになる可能性があるからだろうかと、その投稿を見ながらそんなふうに思い、以後は、残念に思いつつも、今回も含めて、講座を聞いている間にメモを取ることは、いっさいやめました。

 そのために、冒頭の言葉がどうして心を打ったのか、どういう文脈で言われたかも漠然としか覚えていないのですが、記憶のパズルをつなぎ合わせて考えてみるに、「許す(forgive)ということは、過去にこうであればよかった、こうしなければならなかったという自らの実現しなかった願望を捨て去り、そうした過去から、自らに自由になる機会を与える(give)ということなのです。」と言うことだったように思います。と言うのも、オープラが言ったのか、ディーパクが言ったのか覚えていないのですが、「許すという行為は、許すべき相手のためと言うよりも、過去のどうしても変えようのない、思っても悔いても嘆いても仕方のないことに縛りつけられている、そうしてそのために、大切な今というときを生きられていない、今この瞬間に集中できていない自分を、そうした心、過去のしがらみから解き放って自由にすることであり、ですから、むしろ自分自身のためなのですよ。」という教えは、よく覚えているからです。forgive「許す」という言葉のつづりの中に含まれるgive「与える」という言葉を盛り込み、掛詞的に利用しているのがうまいななどと、そんなことに感心しながら聞いていました。

 そうすれば、自分の心がずっと軽やかになるはずです。

 「自分についても、他の人についても、その時々に自分やその人の、その時点のレベルでできる最善のことをしたのだと、そう考えて許しましょう。自分を許せなければ、人を許すこともできませんから、まずは自らを許すことが大切です。」というディーパクの言葉は、繰り返し語られたので、記憶に残っています。


 表向きは21日間瞑想講座なのですが、毎回ボーナスに22日目の瞑想もあり、その日は、自分だけではなく、世界や他の人のことにも思いを馳せて、瞑想し、祈ることになっています。今朝は朝8時から肩のリハビリがあったため、第21日分は昨夜聞き、明日も朝早くからミジャーナに行かなければいけないため、最終日、第22日分の講座は、今夜のうちに聞き終えました。と言うのも、無料で聞けるのは、イタリア時間で明日の朝9時までだからです。

 毎回講座を聞いたあとに、教えを内在化し、日々の人生に生かすために、自らに問いかけて記すべく質問がいくつかあるのですが、その質問には人生や生活に深く揺さぶりをかけるものが多く、後で書こうと思ったまま、まだ答えられていない質問がたくさんあります。質問はコピーして、パソコンに文書として保存してあるので、これからおいおい答えていくつもりでいます。ディーパク・チョープラの21日間オンライン無料講座を、わたしが初めて受講したのは数年前で、それはイタリア語版でした。以後、何度もいろいろな西欧言語の講座を受講したのですが、22日分すべて欠かさず聞くことができたのは、今回が初めてで、枕元にMacBookを置いて、床に横になって聞いたりした日もあったのですが、何だかうれしい達成感があります。学んだことを、これからの毎日に少しでも生かしていけたらいいなと感じています。

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4/5/2017

 写真は、唯一、畑ではなくペルージャのうちの庭に、夫が植えてくれたバラです。撮影したのは昨日で、こちらは今、最初の一輪が咲く準備を整えているところです。

Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-05-05 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(0)

優しくなれば世界が変わる、英語瞑想講座11日目ディーパク・チョープラの言葉

 新緑が優しい緑で町や山を覆う季節になりました。

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 緑も湖も、見る人を選んで、姿を変えたりはしません。講座で、今日心の中心において思いを深めるべき言葉、centering thoughtは、

  I meet any situation with loving kindness.

です。

 「どんな状況にも愛情深い優しい心で応じる。」

 そういう姿勢は聖人だけではなく、わたしたちにも可能なのであって、ついだれかを批判したくなったとき、腹が立ったときには、「今その人が達している意識(consciousness)でできる範囲内で、精いっぱいのことをしているのだ。」と思えば、批判したり立腹したりせず、穏やかな優しい気持ちで応ずることができるだろうと、ディーパクは言います。

 わたしは視力が悪いので、数メートル先にあるものでもぼんやり見え、すぐ近くにある眼鏡さえ、置き場所を忘れると見つからずに、うろうろと探し回ることがあります。困ったな、嫌だなといっしょにいて思える人も、その人の今の心の目では、そういう行動が取れるのが精いっぱいのところまでしか見えないのだと思えたら、確かに自分ももっと穏やかな心でいられて、相手にも優しくなれそうです。まあ、それも難しいし、たとえば教育的立場では、それではいけないと、感情的にはならずに、あくまで相手の立場に立って、こういう立場に立てばこんなふうにも見えるのだから、それではいけないと言わなければならないこともあるのでしょうが、日常の家族や親しい友人たちとの、特にだれが正しいということもないちょっとしたいさかいなどは、こういう心で臨むのが、だれにとってもいい気がします。


 そう言えば、数か月前、テレビ番組で、だれかが「ぼくら男性は、女性に比べてずっと利己的だ。」と話を進め、「たとえば、ぼくら男性は、車を運転していて渋滞に出会うと、いったいどいつもこいつも車でどこへ出かけようというんだと腹を立てます。」と言って、会場を笑わせていました。うちの夫もたまに、こんなふうに運転中にいらいらしながら言うことがあるので、「あ、ぼくも。」と苦笑いしていましたが、運転に限らず、実は結局は自分も同じようなことをしているのに、気づかずに、他人のことだと、あらが目についてしまって、勝手に内心立腹したり、いらだったりするということが、往々にして、あると思うのです。

 映画を見て涙が出る、そうやって主人公と心を共にするように、目の前にいる人の立場・視点に立って心を共にすれば、empathy(共感、感情移入)という態度が取れれば、優しい思いに自然になり、そういう態度ですべてに臨むことができれば、世界が変わってくる、希望が見えてくるとも、ディーパクは言います。

 見方を変えることで、世界や人が新たな光のもとに見え、自分ももっとおおらかに、落ち着いて、希望を持っていられる、難しいけれども、そういうことを、心にしっかり留めておきたいと思いました。

 そういう心に近づけてくれる今日のマントラは、カルナ・ハム(Karuna Hum)でした。寂聴さんの本で、真言宗の真言とは、サンスクリット語でいうマントラのことで、マントラというのは宇宙に語りかけることができる言葉なのだと読んだように思います。何かに気持ちがざわつくときには、このマントラを心の中で唱えて、今日の瞑想講座での教えを思い出したい気持ちでいます。

 後で後でと先延ばしにしてしまい、ディーパク・チョープラの英語版、オンライン21日間無料英語講座を、ぎりぎりの5日遅れで聞いています。本当にぎりぎりで、イタリアでは、アメリカとの時差の関係で、5日が過ぎ去って講座の1日分がオンラインでは聞けなくなるのが、朝の9時なのですが、イタリアでは国民の祝日でる今日などは、その9時の20分前になってようやく聞き始めた次第です。本当は内省して毎日答えて書くべき質問があるのに、後で書こうとためてしまっていますが、今度こそとりあえずはすべての講座を聞き終えたい、そうして、できれば時間を見つけて、宿題がたまった形になってしまってはいますが、21日間の講座を聞き終えるまでには、この日々の質問への答えも、書いて答えて、講座で学んだ教えが、より自分のものとなるようにしたいと考えています。

 写真は、日曜に山を歩く途中で、昼食休憩を取った小川の下流の風景です。上の記事は、今朝瞑想講座を聞き終えたあとに、すぐに書いていたのですが、夜になって、記事に添える写真を選んだのはいいものの、写真の川と場所の名前が分からず、インターネットで調べていたら、いたずらに時間を費やしてしまいました。渓流の名前は、Torrente Bidente di Pietrapazza、場所は、日曜に選んだ山を一周するコースの本来の出発地点がある村と同じで、Ca' di Veroliであるようです。

Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-04-25 23:17 | Vivere | Trackback | Comments(4)

不確かな世に希望を、英語版ディーパク・チョープラ瞑想講座明日開始

 日々を自らの心と向き合い、ていねいに生きていけるように、自分にも他人にも、甘んじず、けれども優しくあれるように、世の中に少しでも、希望の芽を増やしていけるように。

 明日、4月10日から始まる21日間のディーパク・チョープラ瞑想講座は、そういう生き方・在り方に、少しでも近づけるように、教えてくれるのではないかと、確信しています。



 いつもと同様、今回の講座も、オンライン21日間無料で、1日約20分の瞑想講座は、その日の内容を、冒頭でオープラが簡単に紹介したあと、ディーパクの言葉が続き、最後に15分ほどの瞑想時間があるという形が取られることと思います。

 今年早々にあったイタリア語版の瞑想講座は、英語とイタリア語の二本立てであるのに加えて、さらにプージャ・クリスティーナの解説が入り、それはありがたいのですが、時間が倍かかってしまう上に、同じことを二度繰り返して聞くうちに、ついつい集中力が欠けてしまったり、聞く時間が取れぬままに日が過ぎてしまって、結局途中までしか聞くことができませんでした。

 2017年に入って、はや3か月が過ぎてしまい、春が来て、4月に入りました。日本で新学年が始まり、桜が美しく咲きほこっているであろうこの時期に、気を引きしめるべく、あるべき方向を模索するべく、今度の今度こそ、ていねいに21日間の瞑想講座を聞き終えることができるように、頑張ります。今回はずいぶん前から、予習・瞑想講座中・講座後に内省し、よりよい学びを得ることができるようにと、ダウンロードできる別冊の副教材があって、そこには、日々かみしめたいと思う言葉が並んでいます。

 数週間前に講座に登録したら、今日は受講開始直前だからでしょうか、「あなたが世界に希望を広げることができる七つの方法」という冊子も、ダウンロードすることができました。まだざっと目を通しただけですが、ちょうど今、ずいぶん前から立ち止まったり、読み返したりしつつ、読み進めているディーパクの本、『The Seven Spiritual Laws of Success』のまとめのようで、これまで読んだところの復習、これから読む部分の予習にもなります。

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Isola Polvese & Lago Trasimeno al tramonto
visto dal traghetto, #Umbria 8/4/2017

 心にしみこむように、ゆっくりと落ち着いた口調で話すディーパクの英語は聴き取りやすいと、瞑想講座をやはり楽しみにしてくださるようになったブログのお友達から、聞いています。登録すると、毎日その日の講座の内容を簡潔に紹介する文章が、メールで送られてきますので、そういうメールの言葉を先に読んでおけば、聴解を助けてくれる上に、後からきちんと理解できていたかを確認する役にも立つかと思います。わたしは、内容が好きで、この数年ディーパクの講座を受講し続けているのですが(完全にすべてきちんと聴けたことは、恥ずかしながらまだないような気がします)、英語学習の教材としても、活用できることと思います。

 写真は、昨日の夕方、夕焼けに美しい空とトラジメーノ湖を、ポルヴェーセ島を去るフェリーの後部から、撮影したものです。朝早起きして、ゆったり落ち着いた心で受講し、そうして1日を始めるのが望ましいので、これからは、早寝早起きも心がけるつもりでいます。

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Hope in uncertain times (Speranza nei tempi incerti) è il titolo di un nuovo corso di meditazione di Deepak Chopra in inglese che inizia il 10 aprile.

Stavolta si possono scaricare due libretti, "Companion workbook" e "7 ways you can spread hope in the world."
Il corso sarà come sempre on line, gratuito per 21 giorni e mi darrà tanti insegnamenti preziosi :-)
Foto: Isola Polvese & Lago Trasimeno al tramonto visti dal traghetto, Umbria 8/4/2017
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-04-09 23:48 | Vivere | Trackback | Comments(3)

色も人も多様だから世は美しい、サンレモ音楽祭

 昨晩のサンレモ音楽祭では、Mikaが舞台で演奏を始める前に語った一言も、とても心に響き、また、世界の政治や人心がおかしな方向を向きがちである今こそ、こうした言葉を、多くの人に届けることが大切だと思いました。

 その言葉のイタリア語原文は、次の記事の冒頭の写真の下に引用されていますが、以下に日本語訳をご紹介します。


   「音楽にはぼくの心の色を変える力があります。
  白かもしれないし、青や紫、あらゆる色である可能性があります。
  あらゆる色であることは、とてもすばらしいことです。
  もしだれか世界のあらゆる色を受け入れたくないという人がいて、
  ある一つの色だけがより優れていて、
  ほかの色よりも多くの権利を持つべきだと考えたり、
  虹はあらゆる色を象徴するために危険だと考えたりするようであれば、
  そうですね、かわいそうなのはその人です。
  本当にね、そんなだれかには音楽なしで生きてもらいましょう。」
                    (「  」内は石井訳。意訳あり。)

 もう15年以上前、英語の勉強も兼ねて、日本でよく外国映画を見に行っていた頃、英国の映画の中に、障害を持つ人や同性愛の人が、ごくふつうの登場人物の一人として描かれていることが多いのに驚きつつ、日本でもこうでなければいけないと感じました。日本でも当時そういう人物が出てくる映画はあって、勤めていた高校などで全校生徒の前で、人権教育活動の一環として上映することは時々ありました。けれども、そういう映画では、障害を持つ人は差別に苦しみながら打ち勝ち、幸せをつかむ主人公である場合がほとんどでした。それはそれですばらしいのですが、そういう映画では、障害を持つ人が特別な存在として描かれがちで、一般的な映画やドラマに、ごくふつうの人として登場することがめったにないことが気になっていました。

 もう約20年近く前の米誌『TIME』に、ようやくハリウッド映画で、同性愛者を奇人や殺人事件の被害者ではなく、ごくふつうの愛すべき人間として描く映画が現れ始めていると語る記事がありました。記事では、ロビン・ウィリアムズら主演の映画、『バードケージ』(原題は『The birdcage』、イタリア語の題は『Piume di struzzo』)も、そうした作品の例として取り上げていました。映画は社会を映す鏡であり、社会の差別が映画に反映されるきらいがあるけれども、ハリウッドは本来は同性愛の人が多い場所でもあり、社会をよりよい未来に導く映画を作る責務があるのではないかといったようなことが、その記事には書かれていたように覚えています。上記の英国の映画を見て、わたしが感嘆したのは、こういう記事を読んでいたからです。

 同様にニュースやドラマで描かれるある国の人のイメージもまた、社会によって作られる一方で、多くの現象やありうる物語・人物設定の中で、ある特定の描き方・状況のみを選びがちなマスメディアの影響を、多く受けていると思います。マスメディアはまた、残念ながら、視聴率を上げるために、また、ある特定の政治家や政党に都合がいいように、妙に社会を震撼させるようなニュースばかりを選び、移民や外国人に対する偏見や差別を助長するような報道ばかりする傾向があるように思います。イタリアでは、皆が平和を、穏やかな毎日を望んでいるはずなのに、報道されるドラマの大半が推理ドラマで、しばしば殺人が起こり、また上映される映画にも、戦争にせよ西部劇にせよアクションにせよ、登場人物が、怒りに任せて、すぐに暴力や殺人に走る作品が多すぎると感じています。

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虹の立つ海、マルケ州フェルモ県ペダーゾ 2016/2/14

 平和や安全を望んでいるなら、どうして子供に戦争や殺人が出てくる映画やドラマを見せて、武器のおもちゃを買い与えるのかと言っていたのは、だれか思い出せませんが、マスメディアが売れればいい、私益につながればいいということだけではなく、自らの仕事が社会に及ぼす影響の大きさをもっと考え、よりよい世界を作っていくための報道姿勢や番組・映画・ドラマ作りというものを、もっと考えてくれたらと思うのです。

 画一的に何もかもだれもかもを一くくりにして差別を行う社会では、やがて差別や偏見の対象を増やしていき、さらに多くの人々に対して残虐な行為を行う恐れがあります。ナチスはユダヤ人を迫害したばかりではなく、精神病患者や身体の不自由な人々などの子供、約30万人を殺害したそうです。

 アメリカの新大統領はまた極端な例ですが、人の心の中には残念ながら、知らぬうちに自らの国や文化至上主義のようなものが住みついていて、そういう心が、不安や恐怖を煽られると、他国の人々や弱者への迫害につながる恐れがあります。昨日だったか、イタリアの知識人で、偏りが少ないと信じていたあるテレビ番組の司会者が、イタリアの絵画を指して、「この美が絶対的・普遍的であることは、でも間違いがないでしょう」と、そうではないと反論する招待客にかなり食い下がっていて驚きました。何を美しいと思うかは文化によって違うのであって、たとえばアフリカのどこかの民族が美とする女性像を想像できれば、この絵画に描かれた美は、ある国におけるある歴史的一時期における美なのだということが分かるでしょうという招待客の説明に、ようやく司会者も、自らが西欧文明至上主義的態度であったことに初めて気づいて、納得していました。

 閑話休題。そんなことを最近いろいろ考えていたこともあって、冒頭のMikaの言葉が心に響いたのです。多様性がもっと尊重される時代に、人々が自らの文化や習慣・見方を一方的に押しつけようとすることなく、損得ばかりを短絡的に考えることのない世の中になっていきますように。宇宙船地球号、われがわれがではなく、わたしたちの地球、同じ星に住む大切な仲間として対話をすることが今ほど大切なときはないのに、世の中が逆の方向に向かっていることを危惧しつつ、サンレモに登場するさまざまな思いがけない招待客やその言葉に、ああ、こういう人たちもいて、視聴率の高い番組でこういう問題をきちんと取り上げているのだと、希望を持ちました。

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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-02-10 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(2)

希望と美しい音楽をゴミ再利用で作った楽器で、パラグアイ

 今夜、イタリアのサンレモ音楽祭で心に響いたことは二つあります。一つはこちらのパラグアイのオーケストラです。



 ゴミ処理場近くのスラム街で、ある日ゴミの山からバイオリンが見つかり、それをきっかけに、ゴミを利用して楽器を作り出し、バイオリンが家の値段よりも高くてとても買えないという貧しい町の子供たちが、すばらしい音楽を奏で、今は世界でコンサートをし、感動を伝えているとのことで、音楽祭で話を聞いて、感動しました。


 どういうわけかサンレモ音楽祭のツイートには写真しかなく、演奏映像が現在、おそらくは著作権のために見つからないのですが、英語訳もついた簡潔な、このオーケストラ、Orquesta de Instrumentos Reciclados de Cateuraの紹介映像をご紹介します。

 この映像を選ぶにあたって、ざっと見たいくつかの映像の中に、「ゴミは捨てないし、人も捨てたりしません。」という言葉がありました。逆に、何でもすぐに捨ててしまう社会では、労働者も歯車のように簡単に置き換えられ、捨てられてしまいがちです。そうした非人間的で、経済ばかり優先する風潮を、根本から変えていかなければいけないと感じました。

 二つ目は、今夜はもう遅いので、また明日の記事でご紹介します。

参照リンク
- Ansa.it - A Sanremo emozione per i Reciclados de Cateura

関連記事へのリンク
- サンレモ音楽祭、被災地支援・いじめ撲滅運動

Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-02-09 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(2)

願いの実現とレストランの注文、ディーパクイタリア語版瞑想講座1日目

 ディーパク・チョープラのオンライン無料21日間瞑想講座は、その日の講座がオンラインで発表されてから5日間なら無料で受講できます。今度こそ初日の朝から聴こうとはりきっていたのに、3日目の今日の晩、ようやくおととい始まった瞑想講座の初日分を聴きました。

 メモはせずに集中してとのことなので、メモをせずに聴いた上、聴き終えてからすぐ夫がすでに見ていたサンレモ音楽祭を見に行ったためか、ディーパク自身の言葉よりも、その後にプージャ・クリスティーナがしていた解説の方が心に残ってしまっているきらいがあるのですが、忘れぬうちに思ったことを書き残しておきたいと思います。



 desiderioは英語のdesireにあたる言葉で、「願い、望み、欲求、欲望」という意味です。

"La mia vita va avanti grazie al desiderio."

は、「わたしの人生は望みのおかげで前進する」と訳せば詩的である一方、「わたしの命が生き続けられるのは欲求のおかげである」と訳すと、哲学的・生物的真理になるわけですが、イタリア語ではそのどちらをも包括する表現です。

 記憶を頼りに書いているのですが、今こうしている間にも体中の細胞(cellula f. 、pl. cellule)が生きようと望むおかげで、わたしたちが生きていられるのだともディーパクは言っていました。ただ、ディーパクとプージャによるレストランでの注文を例に挙げての説明では、desiderioはもっと心・精神の奥深くの願い、望みを語っていたような気がします。

 レストランに行って注文をすれば、頼んだおいしい料理が、テーブルに運ばれてきて、その料理を食べて、空腹が満たされ、願いが実現する。

 ディーパクが言っていたのは、確か望みとその実現の関係で、それにはいろいろ種類があり、レストランでの注文のように、口にすれば願いがすぐに実現するものもあれば、たとえば、だれか親しい人のことを考えていたら、その人から電話があるといったような、もう少し間接的な、けれどもより魂の深いレベルでの実現もありうるのだということだったように思います。すみません。講座を聴き終えてすぐではなく、サンレモ音楽祭を見たあとでの執筆で、聴きながらメモを取らなかったために、記憶がややあいまいです。

 一方、プージャ・クリスティーナが言っていたのは、わたしたちの望みは、知っているようで、実は自分でもはっきりと知らない、分かっていないことが多いということでした。「何かおいしいものがほしい」と望んでチョコレートなど、おいしいものを食べても満たされないのは、それは、そういうふうに操作されているところもあると言った上で、プージャは、おいしいものが食べたいと感じる心の奥で、本当にほしいものは、実は他のものではないかと問いかけます。言われると確かに、最近つい甘いものに手が伸びるのは、疲れていたり、ストレスがたまっていたりして、元気をつけよう、口に甘いものがほしいと思うからのような気がします。ちなみに、この「本当にほしいものは何か」については、以前に英語の瞑想講座ですでに受講した内容にあり、その問題を取り上げたディーパクの著書はすでに購入しているのですが、まだ読んでいません。

 閑話休題。プージャは言います。「レストランで給仕が席まで来たら、すぐに何を頼みたいかを言わなければいけないけれど、もし神なり天なりが、あなたの前に現れて、何があなたが実現したい望みかと尋ねたら、すぐに答えられますか?」と。先のチョコレートの例ではありませんが、漠然と日頃から願っていることは、たとえば他の願いをすりかえたものかもしれないし、もっと突きつめて具体的なものとしないといけないということではないかしらと思います。

 確かにだれか万能の力を持つ存在が目の前に現れて、わたしの望みをかなえてくれるとしても、その望みがはっきりとした確かなものではなく、自分でも漠然として伝えられないようであれば、天にもかなえようがないでしょう。「レストランで給仕の前で、ああでもないこうでもないとしどろもどろ…」とプージャがたとえて言うように、日々人生を生きながら、人生レストランで自分がほしいメニューが何かを、自分さえよく知らずにいれば、人生の方も与えてくれようがないし、自分自身でもその方向に向かって進んでいけません。

 第1日目は3週間にわたる講座の導入となるため、今日はディーパクの言葉はやや象徴的であり、一方、プージャの言葉はそれを補うかのように例が具体的だったのではないかと感じています。プージャによると、第1週目は「自分が望んでいること」を突きつめること、そうして、講座全体では、自分自身を知ること、認識することを目標としているということで、この講座を受講することで、あらためて自分の人生や毎日を見つめ直すきっかけがもらえるのではないかと思っています。

関連記事へのリンク
- 明日開始ディーパク・チョープライタリア語・英語版瞑想講座、21日間オンライン無料
- サンレモ音楽祭、被災地支援・いじめ撲滅運動

Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-02-08 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(0)

明日開始ディーパク・チョープライタリア語・英語版瞑想講座、21日間オンライン無料

 イタリア時間で明日、2月6日月曜日から、ディーパク・チョープラのイタリア語版瞑想講座が始まります。今回も21日間、オンラインで無料で受講することができます。冒頭の短い説明を除いては、常にまずディーパクの英語による言葉があり、それからイタリア語訳が流れるという形の2か国語音声となっていますので、英語を頼りに、イタリア語学習の音声教材としても使うことができるはずです。わたし自身は、なるほどと日々の暮らしや生き方について目を開いてくれる、背中を押してくれることが多いので、いつもこの講座を楽しみにしています。



 買って読み始めた本も、読みさしてしまい、最近の瞑想講座は、よくばって重複して開講される英語版・フランス語版・イタリア語版を受けようとするあまり、結局どれも中途半端になって、聞けずじまいになることが多く、反省しています。最近は、日々すべきことに追われて、何となく流されている感もあるので、2月に入ったところで、しっかり自分の進む方向を見定めるためにも、今度こそ朝早起きして、一番理想的な方法で受講したい、つまり朝一番にじっくりと聴いてみたいと思います。そもそも途中で聞けなくなる理由の一つに、はりきってメモを取ろうとしながら聴くために、時間もかかるし、聴く前に気合が必要だということがあったのですが、昨年秋にインスタグラムを始めて、たまたまインスタグラムに投稿されていた動画で、ディーパクが瞑想の間はメモなど取らずに、聴くことに集中しなければいけないと言っているのを聞いて、驚きました。確かにメモを取りながらでは、瞑想や聴くことに集中できません。兼好さんが『徒然草』で紹介している弓の師匠の言葉に、「弓は2本ではなく、1本だけ持って射るようにしなさい。2本持つと、もう1本あると思って、つい集中できずに油断してしまうからです。」とあるように、確かに、いいと思った言葉をそのたびにノートに書いていては、注意力が散漫になって十分に聴き取って心に留められなくなるばかりでなく、後で読み直そうと思うために、自分でも気づかずうちにおろそかに聴き、瞑想してしまうということもあると思います。

 というわけで、明日からは、メモは取らずに、聴くことに精神を集中して、受講するつもりでいます。ああ、いい言葉だ、覚えておきたいという言葉が多いので、ついついペンを手に取ってしまい、受講し始めた数年前は、日記に書き込んでいたのが、あまりに書き込みが多いために、最近では専用のノートを作り、分厚いノートが1冊終わろうとしているところだったのですが、メモして書いて残す代わりに、しっかり心に留めておきたいと思います。



 日々すべきことに追われて、何だか流れに押されながら進むように感じる今日この頃、この講座をきっかけに、もうすでに1か月が終わってしまった2017年に、自分は何をどんなふうにしたいか、そして人生で自分は何をしたいかを考え、流されるのではなく舵を自らしっかりと取っていきたいのですが、この講座は、きっとそんなふうに、日々や人生を見つめ直す、改めて考えてみるきっかけを与えてくれることと信じています。

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Panorama da Sant'Elpidio a mare (FM), Marche 5/2/2017

 写真は、今日出かけた先のマルケの村から見えた風景です。写真ではとらえるのが難しかったのですが、雲の間から差す日の光が、それはきれいで感動しました。

関連記事へのリンク / Link agli articoli correlati
- 恐れるな未知は楽しい冒険だ、ディーパク・チョープラ瞑想講座イタリア語版2日目 (3/7/2016)
- 鏡を見るたび (10/9/2014)
- そう来たか ~悟りも健康も掃除から (30/11/2014)
- 心に愛を (20/3/2015)
- これは愛、これも愛 (8/12/2015)
- インプット大事語学も人生も、ディーパク英語瞑想講座6日目 (31/3/2016)
- 悪習慣ふり回されず断ち切ろう、瞑想講座14日目 (7/4/2016)
- 愛・親切・お金すべてはめぐるエネルギー、ディーパク著書読書再開 / Deepak Chopra, "The Seven Spiritual Laws of Success" (11/12/2016)

Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2017-02-05 23:59 | Vivere | Trackback | Comments(2)

それでも命は尊くすばらしい

 最近は少なくなりましたが、以前は外国の人にわたしが日本人だと言うと、「日本は自殺がとても多いですよね。」と言われることが、時々ありました。

 一方、自分と別れて、他の男性とつき合い始めたり、結婚したりした元恋人や元妻であった女性を、元恋人・元夫であった男性が殺害するという事件が、イタリアでは恐ろしいほど頻繁に起こっています。そういう男性が、その後すぐに自らも命を絶つ場合も少なくありません。

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 そういう事件のたびに、「そうした男性が女性を対等とみなさず、自分の所有物のようにみなしている」ことが非難・糾弾され、わたしも絶対に許すべからざる犯罪だと思うのですが、その一方、その心理の奥の奥には、「その女性といっしょでなければ生きていても意味がない」という、他人や外的条件によってしか自分自身の存在価値や生きる意義を見出せないという問題も隠れている気がします。たとえ愛していた人が自分から離れて行っても、自分は愛されるに値する、生きるに値する人間なのだという意識、あの人がいなくなって今はつらくとも、いつかきっと立ち直れるときが来るという思いが持てずにいることも、問題ではないかと思うのです。

 「あなたなしでは生きられない」
 「あなたのことが心から離れない」

 歌謡曲では、イタリア語でも英語でも日本語でも、こうした言葉を耳にするのですが、あふれる愛は感動を与えるものの、一方では、必要に迫られれば、「あなたなしでも生きられる」、「あなたのことも今は遠い思い出」という歌も、もっとあっていい気がします。「あなたがいなくとも、あなたが去っても、わたしは強く生きられる」、「だからと言って、わたしは生きる価値のない人間では決してない」ということを、心の奥底で人々が信じられるように。

 冒頭の日本における自殺についても、入試や仕事の成功などに、人生の均衡を崩してしまうほど、重きを置きすぎてしまい、そればかりが生きる目的となり、また自分の人生や命の価値がそうしたことにかかっていると思い込んでしまっているから、起きるのではないでしょうか。人生にはいろいろな生き方があり、わたしという人間に命がある、そのことだけでも尊くてかけがえがない。失敗は苦しくとも、人生に何か新たな転機をもたらしてくれるかもしれない。合格や仕事の成功は確かに大切でも、命をそのために失ったり、そのためばかりに絶望してしまうほどの価値は決してない。

 桃太郎が鬼退治をしてめでたしめでたしではなく、主人公が失敗したけれども、それでも命が輝き、心が優しくてすばらしいとか、シンデレラや白雪姫が王子さまと結婚してめでたしめでたしではなく、結ばれたあとに、いろいろ行き違いがあって、結局は別れることになっても、離れた相手を敬う心を忘れず、やがて幸せに暮らせるようになったとか、そういう新しい物語が、もっともっと語られるようになればと思います。

 男性が女性を所有物のように扱って殺害することが許せないという討論番組や報道番組を流すそのテレビ局が、同時に、ささいなことから怒りや激情に駆られて殺人を犯し、それを解決する推理番組のようなものばかりを、ドラマとして放送するのも、いかがなものでしょうか。

 皆と同じ道を、皆といっしょに歩けなくとも、転んでも前を向いて歩いて行ける。あの人がもう自分を愛してくれなくとも、だからと言って絶望したり相手を憎んだりせずに、相手の幸せを願いながら生きていける。

 いろんな意味で、自分の命も人の命ももっともっと大切にしながら、皆が生きていけるような、そういう世の中であるように、もっと人生のすばらしさを、あなたのその命のかけがえのなさを、いろんな機会に伝えていけるような社会になっていったら。

 写真は土曜日にマルケ州の山を歩いている途中に見かけたセイヨウマユミの木です。鮮やかなピンクの果皮がまるで花のようで、とてもきれいでした。

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Berretta del prete, sembra un albero fiorito.

@ Riserva Naturale Statale Gola del Furlo 3/12/2016
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2016-12-05 23:24 | Vivere | Trackback | Comments(8)