2010年 04月 17日
久しぶりの授業
こちらが、わたしが授業で採用している日本語の教科書です。会話や文法・漢字の説明がバランスよく配分され、イタリア語で書かれた参考書である上に、練習問題が文法・会話・漢字ともに充実しているので、採用を決めました。英語で書かれたものだと、やはり学生が自分で勉強するのに不便です。
また、旧式の「文法項目」を順に並べた教科書ではなく、その課その課で「学生ができるようになること」、たとえば、presentarsi (自己紹介をする)、chiedere informazioni su orario e prezzi(時間や値段について尋ねる)を目標として掲げ、そうした基本的なことが日本語でできるために文法を学ぼうという形式を取っており、近年の外国語教育研究の成果を踏まえているところも気に入りました。
とは言え、この教科書は、どの課も「表現と文法の学習 ⇒ 文法と漢字の練習・コミュニケーション活動」という構成となっていて、「学習するべき表現や文法事項」の導入部分となるべき、その課の学習内容を盛り込んだ会話(dialogo)の教材がまったくありません。そのため、各課ごとにわたしの方で、その課の学習内容の導入となる会話や補足説明などを補った学習プリント(下の写真)を作成して配布しています。
イタリア語でも、日本語でも、「命令形はこう作ります。はい、では練習しましょう。」では、学習・教育の効率が悪いからです。自分自身が頭を使って思いついた言葉のメカニズム(文法の仕組み、表現の意味など)の方が、教師から教わったり、教科書で読んだりするよりも、ずっと定着しやすいのです。
わたしたちが母国語で新しい表現を身につけていくときも、学校の国語の授業や辞書で調べる場合は別にして、まず周囲の状況や前後の言葉を手がかりに、右脳で概要を把握してから、左脳で言語状況などの細かい分析をします。その分析結果をまた右脳で統合して、「ああ、こういうときにはこんなふうに言うのか」と推測し、その推測が当たっているかどうかを確かめるという形で、自分自身で発見しながら学んでいきます。
ヴェネッツィア大学のPaolo E. Balboni教授が、著書『Le sfide di Babele』(UTET Libreria、2002年)の中で、孔子の言葉らしいとして、次のような言葉を引用しています。
「dimmi... e io dimentico
mostrami... e io ricordo
fammi fare... e io imparo」(p. 81)
(実は引用の仕方がかなり大胆なのですが、分かりやすい記事にするためです。ご了承のほどを。)
意図を汲んで、日本語で表現すると、こうなります。
「言葉でわたしに説明するだけなら、わたしは(習ったことを)忘れてしまうだろう。
どうしたらいいのかを実際に示してくれたら、記憶することができる。
わたし自身にさせてくれたら、(それで本当に)学ぶことができる。」
教師が教える授業ではなく、「学ぶ人自身が主人公として、自分の頭で考え、学ぶべき外国語を実際に使いながら、自分にあった学習方法を模索して、新しい言語を身につけていく学習活動」への転換が、本当に自分のものになる外国語学習のためには不可欠です。
たとえば、上の教科書の第9課は、「~しましょうか」、「~してください」という表現を学んで、人に何かを申し出たり、頼んだりできるようになることを目標としています。
教科書は、いきなりこの表現を教えてから、練習問題を解くという形式をとっていますが、わたしは、以下のような導入教材を自分で考えて作り上げて、授業で使っています。
「あ き こ : コーヒーを入れましょうか。
フランチェスコ: あ、ありがとうございます。
あ き こ : さとうを入れましょうか。
フランチェスコ: はい、入れてください。
あ き こ : ミルクも入れましょうか。
フランチェスコ: いいえ、けっこうです。
あ き こ : はい、どうぞ。
フランチェスコ: どうもありがとうございます。」
言語では、まず初めに「話し言葉」があり、次に「書き言葉」が来ます。世界の言語には、まだ話し言葉だけで書き言葉を持たないものも数多くあります。子供が成長していくときも、まずは話し言葉を覚え、それから書き言葉を学びます。「音声面」が言語教育には大切です。
というわけで、まずは学生にはプリントを裏返しにさせ、「どんな場面での会話かを推測するように」指示してから、わたしの方で会話を読み上げます。(「読む」というよりは声色を使って、人物を演じ分けたラジオ一人芝居に近いです。)
コーヒー(caffè)、ミルク(latte)などの単語や、「はい、どうぞ」、「ありがとうございます」という表現は、学生たちがすでに知っているものです。知っている言葉が多く、新しく学ぶ「~しましょうか」という表現も3度繰り返されているため、会話全体の内容やまだ知らないはずの「~しましょうか」の使い方が推測しやすくなるように工夫しています。
学生たちに問いかけて、一度の音読で分かったことを確認したあと、もう一度読んでから、今度はプリントの書き言葉を目で追いながら音読を聞かせて、それから、学生たち自身に、会話の場面と「~しましょうか」の意味を考えさせるようにしています。
いろいろな機会におすすめしているイタリア語の参考書、『ニューエクスプレス イタリア語』(入江 たまよ著、白水社)については、日本で発売されているイタリア語学習書の中では画期的な良書なのですが、欲を言うと、各課の導入会話の前に、ヒアリングや概要の理解促進を図る問題がないのが残念です。他にも、読む教材として、まとまった書き言葉の文章がいくつかほしいとか(これは、しかし、文法説明に終始する他の参考書でも、ないものがほとんどです)、練習問題や文法説明がもう少し充実していたらとも思います。すべての理想を満たす参考書はなかなか作るのも難しいでしょうが、いつかわたし自身が、イタリア語の歌や広告、ニュースの見出しなど、日常使われる実際のイタリア語の新鮮な教材や、イタリア文化の興味深い情報をいろいろ盛り込んだ、学習にも役立つし、読んでも楽しいイタリア語の学習書を執筆したいと思っています。そして、同様の、イタリア人向けの日本語・日本文学の学習書も書いてみたいと考えています。
というわけで、『ニューエクスプレス イタリア語』を学習中の方には、新しい課に進む前に、次のようなヒアリング・読解練習をすることをおすすめします。まずは何も見ずに、次に本文を読みながら、導入会話のCD音声を何度か聞いてみましょう。その際、「会話がどこで行われ、話し手たちが何をしているのか、あるいは何をしようとしているのか」を聞き取るつもりで、耳を傾けてください。そして、そのあとで、ようやく和訳を読み、慣用表現や語句、文法解説を見るようにしてください。
わたしたちが、難しい日本語の文章を読むときも、また外国で新しい国の言葉を日常生活の中で学んでいくときも、「全体の状況⇒概要把握」(右脳中心)という手続きを踏むと、「一語一語の理解⇒全体の理解」(左脳中心)と文法読解式に理解しようとするよりも、自然な脳のメカニズムを活用するため、理解も定着も早くなります。理想は「全体⇒概要理解」を中心に、並行して「細部の理解⇒全体像」という分析も行うこと。ただし、日本人は、学校の英語教育や古典教育の影響で、「細部⇒全体」という偏ったメカニズムを、外国語を学習するときにも応用してしまいがちです。たとえば、イタリア語で行われているイタリア語の授業中に、一言でも分からない言葉があると、それから先の授業内容が頭に入らない、といった具合に。
ですから、日本語の新聞の難しい記事を、知らない言葉があっても、まずは文脈から意味を類推するつもりで読み進め、イタリア語学習に際して、全体の流れから言われていることを把握する習慣をつけるようにしておくと、いざ学習中の外国語が話されている国に飛び込んだときに、効率よく理解し学ぶための素地を作っておくことができます。
前置きがひどくなりましたが、久しぶりの日本語の授業で、主体的に、そして、うれしそうに質問や練習をする学生を見ていて、私もうれしくなりました。
「~てください」の練習問題の中に、「死ぬ」という動詞があり、「『死んでください』なんて、絶対に使ってほしくないので、これは音読練習はやめておきましょうか。いや、やはりしておきましょう。」とわたしが言うと、「でも、サムライが言いそうなセリフですよね。」と、うれしそうに大声で、そういうセリフが出てきそうな場面を想像して発表する学生がいたりもしました。
イタリアの学校では、日本の歴史は習っても、第二次世界大戦以後であり、授業がそこまで進まなかったために、日本の歴史をほとんど知らないまま、大学に入ってくる学生もいます。
4月9日の記事でも書いたように、まだまだイタリアのマスメディアが日本について触れる機会はごくわずかで、またその報道内容も偏りがちな中で、なぜか放映枠がむやみの多いのは、日本のテレビアニメです。「みつばちマーヤ」や「赤毛のアン」のようにひどく古いものから、わたしも知らないようなごく最近の番組まで、さまざまな時間帯に日本のアニメ作品が数多く放映されています。
ですから、授業中に日本の家屋の造りや生活習慣に触れたときに、「あ、あのアニメに出てきました。こんなことも知っていますよ。」と目を輝かせて話し始める学生がいたりします。
そして、こうしたアニメがまったくのファンタジー作品やおちゃらけ番組も含めて、不思議と、日本の生活習慣をイタリアの学生たちに伝えていく媒介になっています。
先日までわたしが卒論の指導をしていた学生が通っていた課程、Comunicazione Internazionale(国際コミュニケーション)では日本語が必修なのですが、わたしが現在教えているPLIMの課程では、日本語は選択必修です。イタリアとはかなり異なる文化を持つ国々の言語であり、かつ言語類型がイタリア語と非常に異なる日本語、中国語、アラビア語の中から、学生は自分に興味のあるものを選択することになります。
日本語を選択したのは、「アニメや漫画が好きで」日本文化に興味があるからです、という学生が、毎年必ず何人かいます。空手や柔道、合気道などを習っていて、それで日本文化に興味を持った学生もいて、そういう子は、武士道や侍、武士の文化や活躍した時代に興味津津です。
一方、何となく日本語を選択したのに、そのうちに学ぶのが楽しくなってはまってしまったという学生もいます。実は、今年度わたしが教えている2年生は6人だけです。昨年度、1年生だったときには学生の数が倍だったのですが、その半数が、ペルージャ外国人大学の、日本の大学との交換留学制度を利用して、日本に留学したからです。意欲に満ちた面々がクラスにいないのは寂しいのですが、日本で充実した毎日を送り、たくさんのことを学んでいることでしょう。
昨日の授業では、「~ないでください」も学習しました。「話す⇒話さないでください」という練習問題のあとで、「どうしてイタリアでは、映画館で映画を見ている最中におしゃべりをするのでしょう。日本では上映中には黙って映画を鑑賞します。おしゃべりしたいなら、映画館ではなく、どこか別のところに行けばいいのに。」とわたしから一言。
クラスの中には、イタリア人学生だけではなく、ポーランド人や中国人の学生もいます。
「そうそう、映画を見ているときに話をするのはマナーが悪い(maleducato)ですよね。」
「わたしたちイタリア人は、コメントするのが大好きだから、一つ一つコメントをしないと気がすまないんですよ。映画の人間関係から、登場人物のファッションまで……。上映中に一言も話さないイタリア人なんて、わたしは見たことがありません。」
幸いイタリア人にも、「上映中のおしゃべりはやめてくれ」派もいるのですが、上映中のおしゃべりには、中年のおばさんタイプ(実は自分もそういう年齢なのですが、そのカテゴリーには属していないつもり)や子供、思春期の若者が圧倒的に多いのです。「大学に通っていてさえ、こんなふうに考える学生がいるくらいだから、これからもイタリアの映画館では、おしゃべりがますますやかましくなるかもしれない。」と、いらぬ心配をしてしまいます。
「早起き」という言葉を教えて、「皆さんは、早起きですか。」と尋ねると、学生たちは互いに顔を見合わせてから、「いいえ、早起きではありません。」と答えます。中で一人だけ手を上げた学生がいたので、「朝何時に起きますか。」と日本語で尋ねると、帰ってきた答えは「8時に起きます。」
「いや、早起きは確かに相対的な概念かも知れないけれども、朝8時は日本の感覚だと十分に遅いんだけれども。」と言うと、「でも、わたしにとっては、とても早いんです。」
他の学生もわたしと同感のようでした。ことのついでに、「春眠暁を覚えず」を説明。「古い中国の詩に出てくる言葉です。春の朝はあまりにも床の中にいるのが心地よいので、夜が明けたのにも気づかないくらい。春は特に、朝起きるのがつらいということです。」
イタリア人学生たちは、「自分は朝起きるのは1年中つらいです」と告白し、幼い頃に家族と共に祖国からイタリアへと移住した中国人学生は「残念ながら、その詩は知りません。」と言い、ポーランドの学生たちは話を聞きながら、にっこりとほほえんだのでありました。
練習問題。
わたし「autobus」
学生1「バスにのってください。」
わたし「treno」
学生2「でんわにのってください。」
そこで、電話はtelefonoで、trenoは「電車」であることを、漢字の説明もしながら、復習させます。ただ、わたしも一言つけ加えます。
「心配しないでください。似た言葉を間違えて使うことは、わたしも時々あります。時々、nave(船)とneve(雪)、mezzogiorno(正午)とmezzanotte(真夜中)をうっかり言い間違えて、『Guarda! C'è la nave sul monte Tezio.』なんて言って、うちの夫を楽しませていますから。」と言うと、
「そうそう、わたしたちもその単語はよく間違えます。」とポーランド人学生。
そこで、わたしは、「脳内での語彙の記憶は、音声を目印としていて、音の似た言葉どうしは、互いに近い場所に収納されているので、うっかりしたり、慌てていたりするときには、間違って音の似た単語を引き出してしまうことがあるようです。」と、心理言語学(psicolinguistica)の研究成果にも触れて、「単にわたしが抜けているからではないのだ」と示唆して、その話はここまでとします。
学生数が少ないので、ゆっくり授業を進めても、一人当たり何度も練習したり、発言したりする機会を与えられるのが幸いです。
次回までの宿題の指示をして、「さようなら」とあいさつ。また、来週の授業が楽しみです。
LINK
- Amazon.it - Corso di lingua giapponese. Volume 1 (Hoepli)
↑ Adotto sempre questo manuale come libro di testo sia nei corsi di laurea dell'Università che nei corsi di lingua. E' stato ideato come manuale per lezioni ma è ottimo anche per lo studio da autodidatta. Dà importanza alle situazioni quotidiane frequenti, ogni lezione è incentrata su una situazione comunicativa specifica e in essa si studiano le espressioni, le strutture grammaticali e i kanji (caratteri cinesi) legati a tale situazione. Poi si può ascoltare gratuitamente la registrazione di molte espressioni e dialoghi del libro su Internet.
同感です。
私もこれまで英語・中国語・イタリア語と勉強しましたが、
やはり必要なのは、会話力だと思います。
書き言葉は、辞書や教材で覚えればいい。
わざわざネイティヴの先生に教わるのは、リズムを吸収したいから。
そう理解しています。
ジーナ
ジーナ
日本には、「学校教育では書き言葉」、「社会人からは会話」ばかりが重視される両極端な傾向にあるのではないかと思います。けれども、大切なのは、両者を並行して学ぶことです。実際「言葉」は一つであり、「話し言葉」も「書き言葉」もその大切な両面です。
とは言え、まだまだ「書き言葉重視」(というよりは文法重視)の日本では、学習者が「話し言葉」、つまり音声面やコミュニケーションに使える外国語を学ぶように意識して初めて、話し言葉・書き言葉のバランスがとれた学習ができるのかもしれません。
ネイティブの先生も、出身地や年齢、性別などによって、発音やイントネーションがかなり違ってきますので、映画や歌など、さまざまなイタリア語の音声に触れるように心がけると、より幅広いイタリア語のリズムが吸収できると思いますよ。
がんばってください。