2010年 06月 13日
アイとコイを口にするイタリア人?
コイにも、「鯉」と「恋」があって、日本の錦鯉のことは、イタリア語でもcarpa koiと言うのですが、彼が「ください」と言いたかったのは、そのどちらでもありません。
「コーヒー」なのです。
「ください」という表現を学習したので、すでに学習ずみの「飲み物」(bevanda, da bere)に関する語彙のおさらいも兼ねて、「喫茶店にいるつもりで、自分がほしい飲み物を注文してみましょう。」というコミュニケーション練習をしたときの話です。
わたしたち日本人の頭で考えると、「こい」と「コーヒー」とは、まったく発音が違って、はっきり区別できるのですが、この区別がイタリア人学生にとっては、それほど明らかではありません。
なぜかというと、一つは、イタリア語には、hという子音が存在しない上に、書くときにhがあってもなくても発音が変わらず、hは発音しない音だからです。
たとえば、イタリア語の次のような単語の組み合わせを見てみましょう。
1.anno、 hanno 発音「アンノ」
(annoは「年」、hannoは動詞avereの直説法現在、主語が三人称複数の際の活用形)
2.a、 ha 発音「ア」
(aは前置詞、haは動詞avereの直説法現在、主語が三人称単数の際の活用形)
3.ai、 hai 発音「アイ」
(aiは前置詞aと定冠詞iの融合形、haiはavereの直説法現在、主語がtuの際の活用形)
それぞれ、つづりも意味・用法も異なる単語ですが、hがあっても発音しませんので、発音が同じです。
中には、映画『マイ・フェア・レディ』のイライザを思い出された方がいるかもしれません。ロンドン下町の下層階級、花売り娘のイライザが話すのは、コクニー訛りの英語。hが発音できず、[ei]が発音できず[ai]となるために、クイーンズ・イングリッシュを話す淑女に育て上げようとする言語学者ヒギンズ教授に、猛特訓を受けるのですが、何度練習しても、hが発音できず、Spainも「スパイン」と発音してしまう始末です。
特訓のかいあって、ようやくこの壁を乗り越えたイライザの歌もすばらしいし、外国語学習のヒントになるだけでなく、ミュージカルやハッピーエンドの恋愛映画が好きなわたしのお気に入りの映画の一つです。英語、特にイギリス英語を学びたい人には、おすすめです。興味のある方は、こちらのDVDの案内を参考にして、ぜひご覧ください。
イタリア人学生の中には、けれども、hの音がまったく発音できない人がいるわけではなく、注意していないと抜かしてしまって、出欠を取るときに、「はい」と言うつもりが「あい」と言ってしまったり、試験中に緊張したり慌てたりしていて、「はち」を「あち」と書いてしまったりするのです。音の聞き分けができないために、つまり、hがある場合とない場合の識別が耳でできないために、書くときにも記憶があやふやになって、間違ってしまうのです。
それで、わたしの方も、意識づけをするという意図もあって、冗談交じりに、
「ただでさえ、日本人の中には、イタリア人というと異性をくどきたがるという偏見を持つ人がいるので、むやみに『あい』や『こい』を口にすると、誤解されるので注意しましょう。」
と、言ったりもしました。
そして、おもしろいのは、いわゆるipercorrettismoという現象です。「正しくきちんと書こう、発音しようという姿勢」(correttismo)がいきすぎて、必要のないときまで、hを入れてしまうことが、イタリア人学生にはよくあります。
日本語の授業中にも時々ありますが、一番驚いたのは、学生時代の同級生で、英語がペラペラだったイタリア人学生。オーストラリア人の英語の先生が、「留学の経験があるんですか」と聞くくらい、流暢な英語を話す彼が、夢中になって話すと、"Have you ever...?" が "Ave you hever...?"となってしまっていて、つまりhのあるところではhを落として、hのないところにhを入れてしまっていました。先生も、「イタリア人学生にはよくある間違い」だと注意を促していました。
これで、「コーヒー」が「コーイー」になるのは、お分かりだと思うのですが、では、なぜこれがさらに、「コイ」になってしまうのでしょうか。
(ちなみに、厳密には日本語の「ひ」の子音は「h」とは異なる子音なのですが、この点について話すと長くなる上に、学生の間違いは、最初にローマ字表記で「ひ=hi」と覚えたことにも起因していますので、今回は、こう説明しています。)
それは、イタリア語では、単語の意味の識別を、母音の長さでは区別しないからです。
日本語では、たとえば「作家」と「サッカー」、「鳥」と「通り」という語のように、「母音の長さが短いか長いか」によって、言葉の意味が違ってきます。
一方、イタリア語では、「母音の長さ」が「単語の識別」には無関係なのです。
ここで、「でも、たとえばcasaはカーサで、cassaはカッサだから、母音の長さの違いがイタリア語にも存在する」と考えた方は、鋭い方です。
ただ、イタリア人は、この2語の識別を、母音の長さではなく、「子音のsの長さ」で行っています。
というわけで、授業中にうっかりしていたり、夢中で話していたりすると、「長母音が短母音になる」間違いがよくあります。また、かつて教えた勉強熱心な女学生が、ほぼ完璧な100点に近い答案を筆記試験で提出していたのですが、唯一の間違いが、この「母音の長さ」に関するものでした。
わたしたちからすると、明らかに異なる「こい」と「コーヒー」、「はな」と「あな」の区別がなぜイタリア人には難しいかというと、それは、イタリア語では必要のない点に注意しなければいけないからです。
たとえばわたしたちが信号を渡るときに、信号の色が赤か青か(イタリア語ではverde「緑」と言います)には注意しても、信号機がタテ長かヨコ長か、高さや色がどうか、ということは意識をしもしないし、覚えてもいません。これは、必要のない情報を意識しても無駄だからです。
人間が母語を習得する過程も同じで、自分の母語を理解し、聞き分けるための識別力は発達しても、母語が必要としない「識別力」は育たないのです。
これが、わたしたち日本人が、rとl、bとvの音が区別できず、単語を覚えるときにも混同したり、書くときにも間違ってしまったりする理由です。
もともと日本語のラ行の子音は、前後に来る音や地方、個人の癖によって、rに近くなったり、lに近くなったり、ときにはdに近くなったりするようで、いずれにせよ、日本ではrとlの違いによって、単語が違い、識別が必要とはならないために、わたしたちの耳は、「必要もないことを覚えるという無駄なこと」を成長期にしなかったので、聞いて区別をすることが難しいのです。
それでもきちんと文字から正しい単語を覚えて、音の違いに意識していれば、間違いなく言葉を覚えたり、話したりできるようになります。ただ、英語学習のアメリカの研究論文でも、日本人の移民で長く在住している人で、「きちんと区別して発音できるようになる」人は多いけれども、聞き分けが完璧にできるようになったという人はおらず、識別はできないけれども、発音はできるように、努力してなったようです。
わたしも、今でも知らない単語や地名が出てくると、夫にRかLか確認します。わたしの予想通りのこともあれば、予想はずれの場合もあるので、まだまだ発音の識別はきちんとできていませんが、読み書きし、辞書で調べる機会が多いので、混同せずにきちんと言葉を覚えることができ、また発音も、ケンカしたり慌てたりして注意力が散漫でなければ、きちんと発音しわけることができています。
というわけで、イタリア語を学習中の方は、「こういう子音の区別がつかないこと」に落ち込んだり、くじけたりしないで、どっしりと構えてください。
これは発音に限った話ではなく、たとえば冠詞や単数・複数、名詞の性別についても、日本語には存在しないために、日本人には習得が非常に難しいのです。
よくイタリア人の学生に笑って話すのですが、日本語では、親に、「今夜は、友達の家に遊びに行く。」と言えばすむところを、イタリア語では、この「友達」が男性か、女性か、あるいはその両方か、そして一人か複数かを明らかにしなければ、こんな単純なことも言うことができないのです。
わたしたち日本人の母語である日本語には、冠詞が存在せず、主語が単数であろうと複数であろうと述語の形が変わりません。犬がかわいい、というその犬が1匹でも101匹でも、形容詞の形は「かわいい」であり、不変化です。こういう自分の国の言葉では必要のない識別を、イタリア語では行わなければならないために、イタリア語の学習が、ひどく難しくなるのです。
これが、フランス語やポルトガル語など、元来同じ俗ラテン語から発展・変容してできた言語を母語に持つ学生の場合には、自分の母語とイタリア語のしくみ、語彙に類似点が多いので、学習が非常にしやすいのです。
英語にしても、大昔にはインド・ヨーロッパ語というイタリア語と共通の始祖を持っていただけあって、イタリア語と違って、名詞に性別こそないけれども、名詞の単数・複数はあるし、文字も同じアルファベットだし、日本語よりも類型学的にも語族的にも、よっぽどイタリア語に近いのです。
というわけで、わたしたち日本人がイタリア語を学ぶ場合には、ヨーロッパや南アメリカでスペイン語やポルトガル語を母語とする人に比べて、難度が非常に大きいのです。
ですから、どんどん上達していく同級生にあせったり、落ち込んだりすることなく、「わたしは、より努力をしなければいけないし、時間もずっとかけなければいけないけれども、それでも、頑張れば、いつか必ずものにできるはずだ」と思って頑張ってください。
千里の道も一歩から
石の上にも三年
念ずれば花開く
「好きな気持ち」を大切に、じっくり取り組んでいけば、少しずつでも、着実に力はついていきます。
がんばりましょう!