2010年 09月 09日
空の青山の青 民の信仰と暮らし、サン・ペッレグリーノ・イン・アルペ

このサン・ペッレグリーノ・イン・アルペ(San Pellegrino in Alpe)を通りかかったとき、その風景の美しさに息を飲みました。

眺めがすばらしいので、大勢の人々が路傍にたたずんで、青い空の下に広がる山の波を見渡しています。上の写真で、手前に見える緑の山々はアッペンニーニ山脈(gli Appennini)、そして、左から中央にかけて遠くに見えるのが、わたしたちが数時間前に後にしたアプアーノ・アルプス山岳地帯(le Alpi Apuane)です。

そこで、アプアーノ・アルプスの連峰がさらによく見える位置から、記念写真を撮影しました。遠くのアプアーノ・アルプスと手前のアッペンニーニ山脈の間に広がるセルキオ渓谷(Valle del Serchio)も、山並みと山並みの間に、かすかに見えます。

7月18日日曜日、セルキオ渓谷からアッペンニーニ山脈を越えようとしていたわたしたちは、目指す峠に向かう途中で、このサン・ペッレグリーノの村を通りかかりました。連なる山並みの眺望があまりにも美しい上に、夫が行きたがっていた昔の暮らし博物館があったため、車から降りて、村を訪ねてみることにしました。

村の中心には大きなホテルも二つあり、土産物屋も並んでいます。眺望に恵まれた村が気に入って、滞在したいと思ったのですが、残念ながら、どちらの宿も満室ということでした。上の道路を歩いて、まっすぐ前に進んでいくと、まもなく次の建物に出会います。

このアーチをくぐると、左手には教会、右手には昔の暮らし博物館の入り口があります。
わたしたちは、まず教会を訪れました。二人の聖人、聖ペッレグリーノと聖ビアンコの遺体がガラスケースの中に収められ、敬虔な信者たちが聖人の前で祈りを捧げています。

村の名前、サン・ペッレグリーノ・イン・アルペ(San Pellegrino in Alpe)は、地域にゆかりの深い聖人、聖ペッレグリーノ(San Pellegrino)に由来しています。伝説によると、聖ペッレグリーノは、スコットランドの王の息子として生まれながら、王位を放棄し、家族も豊かな暮らしも捨てて、祈りに捧げる隠遁生活を志しました。
そして、キリスト教の主な聖地を訪ねる長い巡礼の旅に出ます。途中で、盗賊の一団に襲われそうになりますが、盗賊たちが奇跡的に改心して、聖人の巡礼の旅に同行することになりました。ローマ、イェルサレムなど多くの聖地を訪れたあと、アッペンニーニ山脈に隠れ住み、森の中で祈りに捧げる生活を送ります。死が近いことを悟ると、大きなブナの木の洞に潜み、その幹に自らの人生を彫り刻んだあと、97歳で死を迎えました。
やがて、あるモデナの夫婦が夢で天使のお告げを受けて、この聖人の遺体を発見します。まったく腐敗していない聖人の遺体は、野生動物たちの大群に守られていました。
この聖人の遺体をどこに安置するかをめぐって、アッペンニーニ山脈のエミリア側とトスカーナ側の住民たちが衝突しました。神の審判を仰ぐことにして、聖ペッレグリーノの遺体を載せた車を、御しがたい雄牛2頭に、牛たちの意のままに引かせます。そうして、長い間あちこち回ったあと、雄牛たちが止まったのが、現在、サン・ペッレグリーノ・イン・アルペの村があるところであり、聖人はここで永遠に安らかに眠ることとなりました。それから教会の建設が始まり、643年8月10日に完成した、と伝説は語っているそうです。
資料や文書が不足しているために、歴史的に不確かな点があるとして、カトリック教会は、この聖ペッレグリーノを公認していません。わたしが今回の記事を書くにあたって参考資料としたのは、サン・ペッレグリーノ村の昔の暮らし博物館の案内書なのですが、この案内書にも、「民衆の想像力が生み出して、広まった伝説が多い」と書かれています。

サン・ペッレグリーノ・イン・アルペは、標高1525mの高みにあります。そして、かつてはトスカーナからアッペンニーニ山脈を越えて、エミリアに至るための唯一の道であった山越えの道の途上にあります。厳しい山越えをする人々を支援しようと、古くからこの地には、旅人や巡礼者を救護し、宿を提供する施設(ospizio)が、教会の傍らにあり(上の写真)、修道者と助修士が、旅人の救護や宿の運営に当たっていました。そうした助修士の一人が、信仰心に厚く、慈悲の精神に満ちていて、聖人として祭壇に祀るにふさわしい行動の模範として、庶民の信仰心から選ばれたのではないか、と博物館の案内書には書かれています。

とは言え、人々の聖ペッレグリーノへの信仰と崇拝は篤いのです。
たとえば、教会の前に立つ十字架は、ブナ(faggio)の大きな枝二本を組み合わせたものですが、祝福(benedizione)を受けたこの十字架を訪れる巡礼者たちは、今もなお、幹の皮を少し削り取って、祝福のために家に持ち帰るということです。そして、毎年8月1日には、すっかり幹の皮がなくなった十字架が、ミサと厳粛な行進のあとで、新しい十字架に代えられるそうです。写真の十字架を見ると、わたしたちの訪問時には、2週間以内に新しい十字架との交代を控えていたため、樹皮がほとんど残っていないのが分かります。

さらに、この教会の少し下方には、石がたくさん積み上げられた場所があります。この石は、巡礼者たちがわが罪を贖うために、運んできたものです。伝承によると、石を置く前に、ひざまずいて周囲を3度回る必要があるとのことです。というのも、聖ペッレグリーノを誘惑して無駄に終わった悪魔が、聖人にひどく強い平手打ちを食らって、聖人の体を3回まわらせたという伝説があるからです。
カトリック教会の公認がないだけに、かえって人々の素朴な信仰心の篤さがひしひしと感じられる美しい場所でした。
教会の次に訪れたのは、地域の人々がかつてどのように暮らしていたか、その生活文化を学ぶことができる昔の暮らし博物館です。

博物館の正式名は、Museo Etnografico Provinciale “Don Luigi Pellegrini”ですから、直訳すると、「県立民俗学博物館『ドン・ルイージ・ペッレグリーニ』」となりますが、展示内容が分かりやすいように、この記事では、「昔の暮らし博物館」と呼んでいます。ドン・ルイージは、長い歳月をかけて、多くの家具や生活・仕事の道具を集め、この博物館を築いた神父さんです。

こちらは、農民の寝室。大きな栗の木の幹を使って作ったタンスが、興味深かったです。横にあった説明には、栗の木は年数が経つと、幹の中が空洞になるので、それをうまく利用したものだ、と書かれていました。

ブルーベリー(mirtillo)を収穫するための道具もありました。写真の右手に写っているのがその道具ですが、櫛の歯状になっている部分を使って、実を大量に手軽に収穫できるとのことです。

靴屋が仕事に使っていた道具もあり、サイズどおりの靴をきちんと作るための、サイズごとの足の木型もありました。遠い昔に読んだ童話、「小人の靴屋」の舞台にも、こうした仕事道具が並んでいたのでしょうか。

店で食料品などを売るのにかかせなかった天秤も、さまざまな種類のものが展示されていました。
皆さんよくご存じかと思うので写真は載せませんでしたが、麦の収穫やワインの製造・貯蔵に関わる道具類も、もちろんありました。機織機や手作りの揺りかごの数々など、展示物は計4000点以上におよび、中部イタリアで最も重要な文化資料博物館の一つだということです。入場料は2.5ユーロです。
人々が昔、どのように毎日を過ごしてしていたか、その一部を垣間見ることができて、興味深かったです。
景色もたいへん美しい場所ですから、ぜひ一度村を訪れて、教会や博物館にも、足を運んでみてください。



先日はお世話になりました。いただいたアドレスからすぐにズッキーニの花の記述を拝読し、コメントを残したつもりが反映されていませんでした・・・。
きれいな風景ですね。澄んだ空気の匂いが感じられそうな。
昔の農具って、面白いけどちょっと怖い。昔見た映画の怖い場面がトラウマになってるんでしょうか。
まったく思いがけずきれいな景色を見ることができて、感動しました。澄んだ空気と言えば、途中から突然それは強く冷たい風が吹いてきて、ふきやまなかったので、半袖だった夫は車に長袖の上着を取りにもどりました。
りえさんに今でも恐怖を抱かせる、その昔の映画って、一体どんな映画で、農具はどんな使われ方をしていたのでしょうか。今度また聞かせてください。
