2010年 10月 12日
我が家は多国籍家族
いつだったか、義父母の知人が「お宅は国際連合ね。」と言ったことがあります。確かに、わたしも義弟の奥さんもとても遠い国から来ているわけで、最近ではお義母さんが、自分から笑いながら、「うちは国際連合なのよ。」などと言うこともあります。
これまでメルマガでもブログでも、特に書かなかったのは、「イタリア語やイタリア文化」を伝えることが、わたしの意図だったからです。わたしたちの住む二世代住宅には、義父母と共に、義弟夫妻も住んでいるため、生活習慣や会話の慣習の違いから、時々困ったなと思うこともあり、あまり否定的なことは書きたくなかったということもあります。
今回、それをあえて告白するのは、我が家の在り方が、実は、移民や国際結婚が増加しつつあるイタリア社会をよく反映しているのではないかと思ったからでもあります。今はなくなってしまったようですが、以前は新聞紙、『la Repubblica』が、『Metropoli』というとても充実した、移民のための、そして、移民問題解決・向上のための週刊誌を週に1度、希望者にはわずかなお金と共に配布していました。その紙面では、滞在許可証発行の遅れや国際結婚など、移民に関わる重要な問題が取り上げられて、詳しく解説されていました。
もう数年前ですが、イタリアでは国際結婚、特にイタリア人男性と外国人女性の結婚が増えつつあること、花嫁としては東ヨーロッパや南アメリカの女性が特に多いこと、そして、外国人女性の方が伴侶よりも高学歴である傾向が高いということが詳しく書かれていたこともあります。
というわけで、まだまだ一家に一人外国人の花嫁でも珍しい中、二人いるという我が家は、少し時代の先を行っているのかもしれません。もともと優しく間口の広いお義父さん、お義母さんは、すでにわたしのときにも、息子が外国人女性と結婚することを心配するよりは、「ようやく相手を見つけてくれた」、「息子3人しかいなかったので、娘ができたようだ」と、かえって喜んでくださいました。
義弟のお嫁さんの場合には、実は母国にまだ当時は未成年の息子さんを二人残していた関係もあって、それだけは気にかかってはいたようですが、人柄や仕事ぶりを十分に認めていました。というのも、彼女がもう長い間、今はなき伯父ドン・アンキーセの介護に、献身的に愛情を持って、あたってくれたからです。母国では医師免許もあり、医師として働いていたのに、イタリアでは医師免許も認められず、看護婦としても勤められないという現実があります。医師としての知識や経験を生かして、今ももう一人の伯父の介護に温かく取り組んでいます。
自分の好き嫌いを非常にはっきりと口にするとか、とにかく話の腰を折って自分が話をするとか、パーティや掃除のときにとんでもないボリュームで音楽をかけ、話す声がとても甲高くて大きいとか、最初は文化の違いにひどくとまどったのですが、たぶんとまどいはお互いさまでしょう。少しずつ家族やイタリア文化の中で過ごすうちに、彼女は人の話を時には黙って聞くことも覚え、わたしは、時には大声で人の話の腰も折り、自分も話す機会を作り出すことができるようになってきました。
二世代住宅に暮らしている異国人がわたしだけだった頃には、「パスタはおいしいけれど、パンもいいけれど、やはりお米がいい」と言う度胸がなかったわたしですが、やはり米派で小麦でできたものは苦手で、それをはっきり主張する彼女のおかげで、わたしも、「一番食べるのが好きなのも、消化しやすいのもごはんです。」、「わたし一人だけで食べるときは、パスタではなくごはんにします。」と堂々と言えるようになりました。義弟の奥さんではありますが、わたしよりは少し年上なので、日本語ではどう呼んでいいのか困るところです。イタリア語では、兄弟も姉妹も、年の差はまったく関係なく、序列意識はありません。お兄さん、お姉さんなどと言う呼称もなく、年齢の上下に関わらず、皆が互いを名前やニックネームで呼び合っています。
唯一同郷のイタリア人女性(と言ってもトーディ出身)と結婚した末の弟には、娘が二人います。これが、わたしのブログにしばしば登場する姪っ子たちなのですが、この姪っ子たちのクラスにも、幼稚園の頃にはエクアドルから来た男の子がいて、今は小学校のクラスに何人か移民の子供がいるようです。彼女にとっては、父方のおばが二人とも外国人なわけです。よくなついてくれて、来るたびに、一緒に遊ぼうと言ってくるので、一緒にお絵かきをしたり、遊んだりしています。姉娘は小学校1年生の1時期だけ、「日本語を勉強したいから教えて」と言っていて、ひらがなや片仮名を覚えて、自分の名前を片仮名で書けるようにもなったのですが、最近は他のことに夢中で、日本語の勉強からは遠ざかっています。
外国人労働者や非ヨーロッパ圏からの移民をひとくくりにして、「諸悪の根源」のようにいう与党の政党があったり、犯罪のテレビ報道で、外国人・非EU圏出身であることをむやみに強調したりと、意識的か無意識か、外国人に関わらず、自分たちとは異なるものを排除しようという傾向が感じられる中、こういう国際的な環境で育つ子供たちが、増えていって、将来は皆が住みやすい社会になっていってくれれば、と思います。
エクアドルの政治状態を聞くと、まだまだ政治的にも経済的にも、そして社会としても、日本は恵まれていると思います。そういう国に生まれ育ったことを感謝しつつ、移民の身で今は投票する権利もないのではありますが、少しずつ日本で、イタリアで、そして世界で、さまざまな差別や無知による憎しみが少しでもなくなり、皆が住みやすい世界になっていきますようにと願っています。
一人の人間が出会える人や読める本の数、得られる情報は、ごく限られたものでしかありません。ですから、数度の経験がもとでステレオタイプや偏見にとらわれることのないように、心がけたいものです。わたしがこうしてブログを書いているのも、「イタリアはこうなんだ」と断言するのではなく、「こういうイタリアもある」という、イタリアの様々な側面をお伝えするためです。逆に、イタリアで日本や日本文化について語るときには、一般に知られていない日本の文化や風習、現実をよりよく知ってもらい、誤解を解いていこうという思いがあります。一個人でも国でも、まずは互いをよく知ることが、互いの理解と尊重につながると信じています。
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先日スウェーデン人と話した時、移民排斥だなんて恥ずかしい・自己利欲のことしか考えられていないと言っていましたが、そのような考えでない人たちも少なくないため、先日の選挙では極右と言われる政党が議席を獲得したそうです。
不景気が原因、という人も多いですが、実際どうなのでしょうね。
そういった括りに囚われないなおこさんの家族はとても素敵だと思います。
移民排斥を叫ぶ政党は実は党首が先日「ローマ市民は豚だ」と発言して怒りを買って謝罪したり、移民だけではなく、南部を差別する発言もよくいていて、こうした言動に眉をひそめる知識人、政治家や一般市民も多いのです。にも関わらずこうした極端な政党が一部でかなりの人気を集めているところが恐ろしいと思います。
イタリアでは左派および右派の一部も移民を大切な財産とみなし、受け入れを積極的に図ろうとはしています。カトリック教会も同様のことを声高に訴えています。一つひとつ草の根から、偏見や差別を取り除いていくことが一番大切かと思います。
私は、外国人と一緒に9年ほど働いたのですが、自分の価値観がいかに普遍でないかという事を痛感しました。「互いをよく知ることが、互いの理解と尊重につながる」というのは、本当にその通りだと思います。
「異文化衝突のほとんどは、発言や言動そのものではなく、その解釈の違いから起こる」と、読んだことがあります。日本国内でもそうですが、特に国が違う場合には、異文化の慣習や行動の背景をよく知って、安直に批判をしないように注意する必要があるかと思います。