2010年 10月 24日
大切なのは種をまくこと
まきなさい、まきなさい。
大切なのは、
少しであれ、たくさんであれ、すべてであれ、
希望のつぶをまくことです。
あなたの笑顔をまきなさい。
周囲にその笑顔が輝くように。
人生の戦いに立ち向かうために、
あなたの元気をまきなさい。
人々が勇気を持てるように、
あなたの勇気をまきなさい。
情熱を、信仰を、愛情を
まいてゆきなさい。
ほんの小さなこと、何でもないようなことでも
まいてゆきなさい。
まきなさい、そして、信じるのです。
どの一粒も
この地上の一角を豊かにしていくはずだ、と。」(和訳は石井によるものです。)
これは、ラヴェルナのお土産屋さんで見つけた詩です。わたしの心を打った言葉の一つで、我が家では、冷蔵庫の壁に飾ってあります。
seminareという言葉は、イタリア語では「種をまく」という原義から語意が広がって、「(周囲に、あちこちに)広めていく」という意味もあります。日本語の「まく」という動詞に、後者の意味まで込めるのには少々無理があるのですが、ここでは、あえて、一貫してseminareを「まく」と訳してみました。「種をまく」という言葉は、「広める」という言葉では表せない、大地にまいてゆく地道な作業や実りを想起させるからです。
日本でも、イタリアでも、世界でも、恐ろしいニュースや悲惨な事件、できごとの多い日々が続いています。でも、わたしたち一人ひとりが、笑顔の、希望の、勇気の種をまいていくことで、ささやかではあっても、一つの種から小さな芽が出て大地を緑で潤すように、大地の一隅を照らしていく、いい方向に変えていくことができるはずです。
今日は、紅葉の装いの美しいラヴェルナの聖なる森を散歩しました。平和というのは抽象的で大げさな言葉ですが、何事も、一人ひとりの一つひとつの行動で、そして、その連鎖で、変わってゆくはずです。
いつかどこかで実を結ぶはずだと信じて、毎日少しでも、笑顔を、勇気を、愛情をまいてゆけたら。そして、全世界にそういう人が増えていったら。まずは、自分にできる一歩から始めてみたいものです。
こちらは、10月9日土曜日に、ラヴェルナ境内で撮影した写真です。今日の散歩では、ほんの2週間で、すっかり秋らしくなった森の様子に驚きました。散歩で疲れてしまって、写真を選んだり、載せたりする元気はないので、まずは、静寂に包まれた聖なる森を散歩して得た、その安らぎと思いの一端をお伝えしようと、この詩をご紹介しました。
>追記(10月25日)
この詩のイタリア語原文を、メルマガ第58号(リンクはこちら)で、学習教材として取り上げて、解説しました。興味のある方は、ぜひお読みください。
いつもブログ拝見していました。
今日の内容に、とっても共感しました。
種をまくということ、地道な作業を毎日つづけていくことなど、
私の以前読んだ好きな本に似たような言葉あったので、再度思い出しました。
素晴らしい詩も知ることができました。
ありがとうございます♪
聖書にも「種まき」という言葉はたくさん出てきます。やっぱりキリストの教えがシッカリ根付いてるんですね。
フッと思ったのですが「〇×セミナー」とかってよくありますよね。あれもこのseminareから来てるのは間違いなさそうですね!
こちらこそ、コメントをありがとうございます。小さな初めの、毎日のささやかな言動を一人ひとりが心がけることで、世の中を少しでもよいものにしていけるだろう、ということを、「種をまく」という言葉を通して、現実的なこととして感じることができて、わたしも好きな詩です。
遠い昔に読んだ『永遠の野原』という漫画にも、やはり畑で作物を手をかけて育てていくように、人間関係や絆も、何か苦しいことがあっても、大切に育んでいこうという詩のような部分があり、とても心に残って好きでした。目に見えないものも、目に見えるものと同じで、まいていくことで育っていくのですよね。
『聖書』のたとえも、ワインや農業に関わるものが多く、やはり生活に根ざした言葉を使って、民の心に訴えようとしたのだと思います。「種をまく」という比喩によって、最後の2行が確実な未来と信じられるのだと思います。
おっしゃるとおり、「セミナー」にあたるイタリア語はseminarioで、動詞seminareと共に、ラテン語で「種」を意味するseminis(イタリア語では「seme」)を語源としています。そう言えば、文化を表すculturaもやはり語源はラテン語の「耕す」という言葉です。何事もまずは種をまいて、耕し、育てていく作業が大切だということでしょう。
素敵な詩ですねぇ・・・
本当にそうですね。
種をまかずには何も生まれないです。
私、いつも思うのですが、やはりキリスト教をある程度理解していないと、ヨーロッパを理解するのは難しいのかな。。。
イタリアは特に!って行くたびに思います。
聖フランチェスコのアッシジ。
あんなに心が静かになる街はないですね。
私はキリスト者ではないけれど、それでも本当に心が静かになりました。
フィレンツェの、サン・ニコロ通りに、聖フランチェスコがフィレンツェに初めて来た、ということが書かれている小さな碑があるんです。
今年の1月、それを見つけて、なんだか傍にフランチェスコがいるような気持ちになりました^^
「種」と「大地の豊かさ」という言葉が、人間の営みに根ざしているので、ことさらに心に響くのかなとも思います。
キリスト教の影響は、たとえばシスティーナ礼拝堂の絵画の解説を見ても、当然ながらすべての絵に聖書のさまざまな出来事や章が踏まえてあることを始め、残念ながら政治的にも、イタリア国民の自由がカトリック教会の影響で阻害されているところがあると、個人的には思います。尊厳死、離婚やゲイ、人工授精など、本来人々を思いやるはずの教会が、教義にこだわりすぎて、愛ではなく掟の教会になっている点も多い気がして残念です。
宗教を超えて、聖なるものが心を打つ場所というのがあるかと思います。カトリック教徒の夫も、春日大社など日本の美しい寺社の境内や庭園を訪れて、やはり穏やかな気持ちになるようです。