2010年 10月 27日
秋色の庭


黄色からオレンジへ、そして赤へと、熟すにつれて色の変わっていくこの木は、山や島を散歩中に見かけることがよくあります。

我が家にもあることを、つい最近知って驚きました。赤く熟れた実はおいしいそうで、ジャムにして食べたりもするそうです。

「そうで」と伝聞形を使っているのは、まだ食べたことがないからです。わたしの夫は、ブルーベリーでもブラックベリーでもラズベリーでも、およそ食べ頃の熟した実は、散歩中に見つけると必ず味わって、わたしにも勧めてくれるのですが、この実だけは食べているのを見たことがないのです。お義母さんとお義父さんが「おいしいから食べてごらん。」と勧めてくださるのですが、まずは夫に聞いてみようと思いつつ、聞くのを忘れてしまっています。

実も美しいのですが、鈴なりにさく白い花もまた可憐です。

夫の創り上げたジャスミンのアーチ。正面左手にあるのはリンゴの木で、春には白い花、初秋には赤いリンゴがこのアーチから見えていました。秋の深まった今は、手前の木の紅葉が鮮やかです。

今日は久しぶりに、秋晴れの美しい日です。

今年最後の梨の実が二つ、まだ木に残っています。

右手前に見える梨の実は、もうとうに終わってしまいました。今は葉の彩りが目を楽しませてくれます。二つの梨の木の間に立つイチジクも、今は手の届かぬ高いところに、実がわずかに残るばかりとなりました。

少しずつ少しずつ、オリーブの実も、緑から紫へと色づいていっています。我が家の庭とミジャーナのオリーブ園では、例年11月に入ってからオリーブを収穫します。今年はお義父さんが足を骨折したため、収穫時期には家族全員で、手伝うことになると思います。
今日の昼食は、お義母さん、お義父さんに招かれて、一緒にいただきました。野菜畑で採れた野菜を一緒に料理したおかずがおいしかったです。食後にバーチ・チョコレートを食べました。包み紙に書かれた言葉が、奥が深くて気に入ったので、皆さんにもご紹介します。
"L'amore è una farfalla: se la stringi troppo, muore; troppo poco e vola via." (Anonimo)
わたしの方で、日本語に訳してみると、
『愛は蝶。つかみすぎると死んでしまうが、つかみ足りないと飛び去ってしまう』(作者不詳)
下に「n.2」とあるので、愛の言葉集の二つ目のようですが、いったい一つ目はどんな言葉なのだろうと、気になります。
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来ていただいて感激いたしました、ありがとうございます。
お庭には果樹があるのですかぁ、憧れのお庭です。
家は雑草だらけの庭でため息ついています。
病気の治療を受けながら、免疫アップしたいと願っていますの。
乳がんの方がお元気でお過ごしとのお話、励みになります。
これからもよろしくお願いいたします~

こちらこそ来ていただけて感激です。ありがとうございます。果物の木は多いのですが、野菜畑も果樹もほぼ自然栽培の状態なので、鳥や虫の被害に遭ってしまいます。花と実で2度目を楽しませてくれます。
母の死は、20年以上経った今も、心の中で整理できていなくて、考えると、すぐに涙が出てしまいます。亡くなったのも、死が近いことを知ったのもちょうど教育実習の最中で、実習が終わったらそばにいられると思って、なかなか病院に行けないことを我慢していたら、予期よりもかなり早く、実習の最中に亡くなってしまいました。実習開始までは、ほとんど病床に付き添っていたのに、最後の最後に、母の死を知ってからは十分一緒に過ごせなかったという大きな穴が今も開いている気がします。安定した職業を捨てて、イタリアという未知の土地で学んでみようと思ったのも、「命は限られていて、この先何が起こるか分からない。高校教師としてはもう12年働いたから、今度は他のことに挑戦してみよう。」と思ったからでもあります。初めての職場で大変お世話になった先生が、お若い盛りで突然に心筋梗塞で亡くなられたことも、そういう思いを強めたかもしれません。
彼女もだんなさんも、もう2度、3度と巡礼を続けています。世界中の人が同じ志を抱いて、同じ聖地を目指して歩く、その連帯感と歩く楽しみに、すっかり夢中になったようです。まもなく聖地で到着する彼らの巡礼に、ムームーさんを始め、多くの闘病中の方々が健やかに暮らせるように、わたしも祈りを託したいと思います。こちらこそ、これからもよろしくお願いします。

お庭に沢山の木々があり、自然が生み出す美しさは
毎日変化があり、素敵だろうなと思いました。
> 『愛は蝶。つかみすぎると死んでしまうが、つかみ足りないと飛び去ってしまう』
↑うまく表現できないですが、とっても真理を表現されてるなと思いました。
先日の詩の翻訳も。
P.S 母にも伝えたところ、 milletti_naokoさんの訳が素晴らしいといっておりました。ありがとうございます♪
(もちろん、私もそう感じています♪)
孔子もかつて言ったように、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」。仕事でも何事でも「中庸」が大切だと思うのですが、こと「愛、愛情」に限っては、つい感情に流され、とらわれて、適度な距離を保てないことがあるので、そのとおりだと思いました。
どういたしまして。訳がすばらしいなんて、ありがとうございます。詩の美しさと、それが琴線に触れる、みそじさん母娘の澄んだ心ゆえだと思いますよ。

可憐な花が咲くのですね。
遠目に見ると、一瞬さくらんぼうかと思いました。
それにしても、バーチチョコの包み紙の言葉は奥が深いですね。
男女間の愛に中庸ほど難しいことはないと思いますが、
適度な距離感でつかず離れず
・・・そうありたいものですが、なかなか難しいことです。
男女の愛にしても、親の子供に対する愛にしても、どこまでかをはかるのが難しいですよね。その人の性格や育ち方によって違いも出てくるでしょうし。夫婦の間でも一生、つかず離れず、その距離感を見定めていくことになるのだと思います。
相手を思いやる緊張感を持ち合いながら、一緒に過ごす時間を積み重ねて、織り上げてゆく二人のきずな。いやいや、結婚では大先輩のゆんさんに向かって恐れ多い。
うちの夫には、映画やドラマでハラハラする場面を見て、緊張しているわたしを「わっ」とつついて驚かし、楽しむというはた迷惑な癖があります。「ぼくの愛情表現だから」という、こういう夫のびっくり作戦をわたしが受け容れるべきか、それとも、わたしが冷や冷やして心臓にも悪いので、夫がわたしを思いやって、この習慣を改めるべきなのか。はてさて、どちらでしょう。話がそれてしまいました。

この実でした、思い出せずにいましたの。
ありがとうございます、植物園にはたくさんなっていました、うっかりと名前を見てくるのを忘れました。
なおこさんで見せて貰っていたのに、ナゾがとけて良かったですわ。
ありがとうございます、ここへ書かせて貰ってごめんなさいね。
どうしたしまして! ということは、セイヨウヤマモモ(corbezzolo)は植物園にあったのであり、寺社の庭に生えるほど、一般的な庭木ではないんですね。シュウマイ鍋、エノキ、菊菜、白菜と、日本の懐かしい食材をたっぷり使っていて、本当においしそうです。
コメントを読む方に事情が分かるように、ムームーさんの該当記事へのリンクを貼らせていただきますね。
http://mumu2003.blog2.fc2.com/blog-entry-4537.html#cm