2010年 10月 28日
「わたし」に求めるものと「あなた」に求めるものの違い ~漫画と童話の二重基準
すべての漫画に共通するわけではありませんが、うすうす思っていたことがあります。
『キャンディ・キャンディ』でも、『はいからさんが通る』でも、少女漫画の主人公は、原則的に、美人ではなく、おっちょこちょいで、何かしら欠点はあるけれども、性格はひたむきで、まっすぐです。一方、相手方は、ハンサムで裕福で、頭もよく、性格もいいという傾向があります。川原泉さんの漫画や『ガラスの仮面』など、他にもいろいろ思い当たる漫画はあります。
これが、少年漫画だと、逆になるような気がしたのです。『タッチ』や『みゆき』で、相手役となるのは美少女である上、頭がよく料理もできて、皆の人気者。一方、主人公の少年は、気は優しいけれども、容姿はそこそこで、勉強がとりたててできるわけではありません。『ドラえもん』ののび太としずかちゃん、そして、『銀河鉄道999』、『ハイスクール!奇面組』や『さすがの猿飛』になると、才色兼備のヒロインと主人公の差がかなり広がってきます。『うる星やつら』のように、「とにかくかわいくスタイルがいい」と、ヒロインの設定が多少違っても、とにかくヒロインの方に期待される徳が多いことに違いはありません。
題材とする漫画やアニメがとても古いので、一部の人にしか分からないかもしれません。ともあれ、小学生から大学生にかけて、そういう漫画やアニメに接していて、漠然と思ったのは、こういうことでした。
人間、自分自身については、「容姿や富、賢さなんて関係ない。大切なのは、性格や思いやり。自分らしく、まっすぐに純粋に生きていくこと。」と思いながら、理想相手として思い描くのは、「性格がいい」ことはもちろん、「容姿端麗、頭脳明晰」な異性であり、かつお金があれば申し分なし、と高望みをしがちなのではないか。
そして、そういう漫画を楽しみつつも、少女漫画、少年漫画のこうした設定は、どこかがおかしいな、と感じていたのです。
「成績や容姿は大切ではない。大事なのは性格だ。」 と言いながら、結局それを肯定するのに、つまり、「そういう主人公の在り方でいいんだよ」と言うために、それでも幸せな人生・学校生活を送れることを、才色を兼ね備えた相手と幸せに過ごす姿を通して伝えているところに、矛盾を感じました。
おそらくは、わたしたち読者がそう感じていたから、つまり、「自分は自分らしく、ひたむきで、気立てさえよければいい」、でも、「相手には、ハンサム(美人)で、頭もいい人であってほしい」(さらに、相手が女性なら料理がうまく、男性ならスポーツ万能などなど)と心の奥底で思っていたから、漫画家たちが、そういう少年少女たちの気持ちに応えようとして、こういう作品が生まれていったのか。それとも、漫画家たちが、こういうパターンによって、少年少女たちに、「成績や容姿にとらわれる必要はない。自分らしさと思いやりを大切にし、気立てさえよければよい」という励ましのメッセージを送っていたのか。
そして、この構図は昔から存在するものなのです。わたしの大好きな『赤毛のアン』もそうです。アンは、成人すると美しく、賢く、優しい女性、母になりましたが、少女の頃は、間違って友人にワインを飲ませたり、からかったギルバートの頭に石版をたたきつけたり、リンド夫人に怒りを爆発させて、とんでもない勢いで反論したりしていました。それでも、ハンサムで優しく頭も切れるギルバートは、ずっとアンを思い続けていました。

遠い昔話にも、また違った形で、この「自分と相手に課す理想の二重基準」が、存在しています。
日本古来のおとぎ話である「鉢かつぎ」にせよ、ヨーロッパの童話である「シンデレラ」にせよ、主人公は貧しいけれども、心優しく、働き者です。「鉢かつぎ」には知性と教養もあり、「シンデレラ」は美しくもありましたが、世界各国の童話で、一般民衆である若い男性が主人公である場合には、一般に出自も実家も貧しいことが共通していて、「美しさ」には触れず、もっぱら「思いやり」や「賢さ」が、主人公の持つ徳になります。
そして、この優しい、賢い、働き者の、けれど貧しい主人公が、その人となりのおかげで得ることができるのが、王子さまやお姫さまとの結婚で、そして、そこで「めでたし、めでたし」と話が終わるものが多いのです。
「貧しくても、心が優しければ、知恵が働けば、いいんだ」ということを、それでも認められるということを、「お金持ちで知恵がある美しい相手」との結婚で肯定することが、不思議です。
とは言え、これは昔から民衆の間に語り伝えられてきた話であり、こうやって自分たちを慰め、励まし、夢を見ながら、子供に夢を見させながら、つらい生活を乗り切っていたのかもしれません。
毎日の生活や生き方でも、人間ついつい、自分には甘く、他人にはきびしい尺度を使って、あたってしまうものですが、そういう二重基準が、どういうわけか、どういうゆえんかは分からぬながら、少年少女の漫画の世界や童話にも存在するのではないか。
漫画は読み手が、童話は聞き手が、楽しむためのものなのだから、そこまでうがって考えるべきものではないのかもしれません。とは言え、今日は昔から何となく思っていたことを、書き記してみました。
遠い昔、東京の保谷市立柳沢中学校の図書室で、不思議なフランスの昔話を読んだことがあります。貧しい田舎の若者が、成功を求めて、町に行く途中、風車小屋に座っている娘と言葉を交わします。やがて、町に行き、どういう理由か覚えていませんが、王さまを喜ばせた若者は、その気になれば、お姫さまと結婚し、やがては国王になることができたはずなのです。けれども、彼は、国王の申し出を辞退し、道を引き返して、風車小屋の娘と結婚して、幸せに暮らすのです。
中学生の頃は、結末を不思議に思ったこの昔話が、実は、多くの男女にとって理想的な出会い・結婚を語っているかもしれないと、今はそんな気がします。


その理想にしがみついていると、運命の人を逃してしまいそうですね。
私は、小さな小さなことに幸せを見いだせる人ほど豊かな人生を歩めると思っています。
以前にインターネット上で、初デートなのにハイキングに誘われた信じがたい、と言った投稿を見て非常に驚いたことを思い出しました。
驚いたというよりは理解しがたいとさえ思いました。
自分に甘く他人には多くを求める、というなおこさんの発見には私も共感できます。
共感した上で反省。笑
自分に厳しく向上してキラキラ輝いた女性になりたいものです。
自分を慰め励ますことで将来に夢を託すのかもしれないですね。
娘が何故にパパと一緒になったの?
もっと好い人がいたでしょう~なんて失礼なことを言いますわ。
自分が選んだ生き方だからこれで良しとします。
話がテーマと違いましたね、ごめんなさいね。
幼い頃、少年少女名作文学を読んで、『小公女』のセーラや『若草物語』の四姉妹のような心気高く常に優しくしとやかな優等生(ジョーは例外)の少女たちのモデルと自分の格差に内心落ち込んでいたわたしは、根は優しいし、いい子なんだけれど、失敗もたくさん、美人ではない、というアンやキャンディのような少女像に励まされ、ほっとして救われたところもあったのではないかと思います。
ただ少年漫画を見ると同様に、少年に「外見やスポーツ、成績がなんだ」、心の優しさやひたむきさが大切なんだ、と語っているようで、その対照がおもしろかった上、どちらの漫画も相手方には完璧とは言わないまでも、あらゆる点で理想に近い異性を持ってくるのも、高校生の頃は興味深かったのです。
ただ、ひょっとしたら、一番大切なのは、やはり思いやりや知性などの人間性だということに、心の奥底で気づけない少年少女、ゆくゆくは若者を育ててしまっているかもしれないなと、大人になってから感じました。
やっぱり少年少女の読み物は、育ち盛りの子供たちを励まし、かつ魅力的な相手方を登場させて、夢を与え、かつ物語りに引き込んでいくことになるのでしょうね。よく考えてみると、漫画や童話に限らず、映画にもそういう傾向の作品もいろいろあります。現実世界を考えさせると同時に、現実から離れた世界を楽しませる効果もあるわけですから。
わたしは娘さんがなぜそういう質問をされるかに興味があります。すてきなご両親を見て、自分もそんな家庭が築いていける相手に巡り会いたいから、「なぜ、どうして」と聞いているのかもしれませんよ。
確かに!
子供のためのお話しって、「勧善懲悪」なものが多いのが、ずっとね不思議!って思っていたんですよ。
漫画でも、そういう感じのものが多くて。
私とnaokoさんと少し年代にずれがあるから、私はハイカラさんを大人になってから読んで、大学生のころは何と言ってもベルサイユのばらだったんですけどね。
ベルばらの方は、アントワネットに仕える男装の麗人オスカルが主人公で、作者はフランス革命をきちんと描きたかったのかもしれませんが、その作者の出世作は「章子のエチュード」で、こちらは貧しい健気な女の子が富豪の息子と結婚する、なんてお話しでした。
今の漫画や子供の本の世界がどうなっているのか、ちょっとわかりませんが、うちの息子が小さかったころに流行した漫画は、私たちが読んだものとは少し違ってきていました。
私は親としてあまり読ませたくないな、と思ったものです。
ただ、大人になった子供たちから「よくもここまで純粋培養してくれたよね。学校で、他の子たちに話を合わせるの、結構大変だったんだよ!」と言われて、うーむ、やはり清濁併せのむような教育をすべきだったか、とちょっと後悔しました。。。
同じ漫画を読んだ時期が違うというのが面白いですね。Wikipediaで調べると、はいからさんも、ベルばらも、漫画連載・アニメ放映が、1972~1980年の間と、ほぼ同時期の作品となっています。この連載および初回放映のとき、わたし自身は小学生・中学生だったのですが、テレビも漫画も見たのは、中学生から高校生にかけてであったと記憶しています。中・高生だったわたしは、主人公の運命や筋をどきどきしながら読んだのですが、大学生・大人になってから読まれた杏さんは、やはり当時の革命の社会背景などをもっと深く考察されながら、読み進められたのではないかと想像します。
遠い昔に連載された漫画が、いつまでもいろいろな世代に読み継がれることを、改めてすごいなと思います。わたしも、自分が幼い頃から中学生にかけては上質のアニメが多かったような気がします。
わたしも親に「純粋培養」的教育を受けたために、大学生・社会人になって、からかわれたこともあり、とまどったこともあります。ただ、物事の尺度も分からぬ幼い頃から、取捨選択されない雑多な情報にさらされてしまうよりは、そうやって育ててくれたことに、今は感謝しています。