2012年 02月 09日
日暮れはすぐに
一筋の日の光に射抜かれて、
そうして、すぐに夜となる
昨日の夕方、トーディから訪ねてきた義弟の家族といっしょに、温かい紅茶を楽しんでいたら、夕焼けがあまりにもきれいなので、写真に収めました。
冒頭に掲げたのは、イタリアの詩人、クワジーモドの詩です。(原詩は下注を参照)原詩の持つリズムや多様な解釈の可能性を大切にして、わたしなりに訳してみました。ペルージャ外国人大学の文学の授業で教わった有名な詩で、今も時々心に思い浮かべる、好きな詩のひとつです。昔のノートや教科書を探す手間を惜しんで、今インターネットで調べてみると、この詩は、人間の孤独や、人と人が互いに理解しあうことの難しさ、人生のはかなさを語り、「一筋の日の光」は、人間をさいなむ「幸福をつかめるという幻想」なのだということです。
ただ、わたしの中では、いつのまにか、かつて教わったであろうことが、自分なりの解釈に変わり、だれもがこの世で自分の場所を持ち、わずかな間だけれど、自分の道を切り開き、夢に向かう可能性を秘めているんだというふうに、人生を肯定的にとらえたものだと思うようになっていました。2行目冒頭のtrafittoは、「(弓矢や剣などに)に刺し貫かれる、突き通される」という意味でよく使われる単語ですから、この言葉と、作者の作品傾向から、オンラインで見つけたような人生の孤独やはかなさを訴える詩という解釈がされているのでしょう。ただ、わたしの中では、自分勝手に、この「一筋の日の光」(un raggio di sole)を、人の人生を一貫して突き動かす、細いけれども確かに続いていく、希望のような意思のような、志のような、あるいは愛情のような……何か確かなものだと、思うようになっていました。そうして、時々、夫や友人たちと共に、山を歩いていて、「ああ、いつの間にか、もう日が暮れてしまうのだな」と感じたときにも、この詩の最後の1行、「ed è subito sera」が心に思い浮かぶのでした。
昨日の伯父の葬儀のミサでは、神父さんの説教がとてもすてきで、その説教の中で、「人生のはかなさ」を繰り返し強調していました。「あちこちで死亡広告を見ても、皆、自分が死ぬとは思っていないけれど、死はわたしたち全員に、いつか必ず訪れるのであって、だから、まだ時間があると思わずに、ふだんから神の意にかなった、隣人への愛や思いやりを忘れない生き方をしなければいけないのですよ。」
「死は遠い先と思っていても、不意にやって来るので、いつ来るか分からないから、常に気をつけて、準備をしておかなければ。」と、ドン・インニャッツィオ。言葉を変えて、何度も注意を呼びかける様子と、その内容が、14世紀の日本に生きた兼好法師が、『徒然草』の中で、繰り返し訴えた内容と、その執拗さに、驚くほどよく似ていました。違うのは、ドン・インニャッツィオはカトリック教徒としての望ましい生き方を、兼好法師は出家を呼びかけていたという点です。
いつか死に直面したときに、あるいは、いつ死が訪れても、後悔のない生き方ができればと、それがどんなに難しいことであるかを知りつつも、思いました。
1年前に読みかけて、最後の部分だけ読み残していたこちらの本を、昨晩ようやく読み終えることができました。題名は、『Dreams from My father』。読書そのものを楽しめた上に、こういう、人の気持ちが分かり、感受性が豊かで教養があり、使命感の強い人が、アメリカの大統領に選ばれたということに、希望を感じました。
この本を読み終えたから、いよいよフランス語の勉強を始めなければ、というところですが、この数日は掃除も洗濯もできなかったので、今日はそちらに取りかかっているところです。まもなく洗濯が終わるでしょうから、そうしたら、2日ぶりに『Zaz』の歌を聞きながら、洗濯物を干すつもりでいます。
下注
Ed è subito sera Salvatore Quasimodo
Ognuno sta solo sul cuor della terra
trafitto da un raggio di sole:
ed è subito sera
別れは寂しく辛いものですね、でも素晴らしい生き方をされたのですね、こうして皆さんの心の中にいつまでも思い出として残りますねぇ。
夕焼け空の美しさに感激いたします。
素晴らしい詩にうっとりします。
クワジーモドの詩と夕焼けの色。
胸が熱くなります。
ステキな言葉(音色)に出会う時、
ステキな色に出会う時、
心が温かくなるのを感じます。
古文、漢文の苦手だった私ですが、
「徒然草」今いちど読んでみようかなと思います。