2013年 05月 03日
アッシジとヒヤシンス

今朝、昨日からの長きにわたる企業訪問や説明・話し合いが終わったあと、せっかくウンブリアにいらしたのだからと、お客さんをアッシジの聖フランチェスコ大聖堂に案内することになり、わたしも通訳として同行しました。

ペルージャからは近いので、何度も訪ねたことのあるアッシジや大聖堂でも、他の人と訪ねると、ふだんと違う道や聖堂内の通路を歩くことになって、興味深かったです。

というのも、わたしや夫がアッシジを訪ねるときは、時間に余裕があることもあって、たいていは大聖堂から遠く離れた無料駐車場や、その近くにある有料駐車場に車を置いて、アッシジの町を端から端まで歩くのですが、今回の短いアッシジ訪問では時間がないので、大聖堂だけを訪ねるため、そのすぐ近くにある駐車場から、歩いたからです。

イタリアと日本の間のさまざまな業界、企業、役所間の交流を知り、その一助を担い、いろんな世界を垣間見ることができるので、通訳の仕事もまた、とても興味深いです。
通訳の仕方は人によっていろいろあると思います。わたしの場合は、ふだんは夫や義家族、友人たちとの会話を中心に、イタリア語の中で、イタリア語で考えて暮らしています。そのため、イタリア語や英語から日本語、またその逆の通訳をする際は、イタリア語で言われた表現を、日本語に訳す、あるいはその逆に日本語から訳していくのではなくて、イタリア語や英語で表現され、そこでわたしが受け取って、認識をした内容自体を、頭を切り替えて、日本語で表現したり、日本語で言われて、わたしが理解した内容を、イタリア語の頭に切り替えて、イタリア語で説明したりすることが多いのではないかと思います。では、いったいどういうふうに頭を切り替えていて、その話されている核の内容自体は、何語でとらえているかと聞かれると答えに困るのですが、おそらくはわたしの頭は通訳をしている間、そういうふうに働いているであろうと推測するのは、時々、イタリア語で言われて、日本語で伝えなければいけないのに、スイッチを切り替え忘れて、イタリア語のまま説明したり、日本語からイタリア語で訳さなければいけないのに、日本語でイタリアの企業の方に話してしまったりすることがあるからです。
二つ以上の言語を並行して使う場合に、頭の中で、きちんとそれぞれの言語の空間が仕切られている人と、複数の言語の空間が重なっている人がいるそうなのですが、わたしはどうも後者に当たるようで、イタリア語での会話から日本語に、英語にと、使用言語を切り替えなければいけないときに、英語で話さなければいけないのに、うっかりイタリア語で話してしまったり、その逆になったりすることがあります。言いたいことや言われたことを訳すのではなく、頭の中で操作する言語(頭のオペレーション言語?)自体を切り替えるので、そういうことになるのではないかと、推測しています。
ずいぶん前の話ですが、サラミ屋さんの入り口で、日本のお客さんから、「店内で写真を撮ってもいいかどうか、お店の方に聞いてください。」と言われて、「すみません、写真を撮ってもよろしいでしょうか。」と、生粋のイタリア人のお店の方に訪ねたことがあります。店主は「いいですよ。」とにっこりイタリア語で答えてくれたのですが、その直後に、日本のお客さんとイタリアの企業の方に、「今、日本語で質問しましたよね。でも、ちゃんと通じたようですね。」と言われて、初めて、自分が、日本語で尋ねてしまっていたことに気づきました。

真っ先に、他の球根より何日も早く芽を出したヒヤシンスが、少しずつ薄紫のかわいらしい花を開いていっています。他の球根も無事に育っていて、最近は、毎日花の育ち具合を見るのが楽しみです。

明日の午後から、1週間ほどの巡礼の旅に出かけてしまうので、どうかわたしたちが旅から戻るときにも、まだ咲いている花がありますようにと、願っています。
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Una brevissima Visita ad Assisi, per lavoro accompagnando come interprete i clienti giapponesi e i signori di un'azienda umbra che li ospita.
Da ieri mattina fino a oggi pomeriggio, la visita, i dialoghi e la traduzione erano assai impegnativi ma ho imparato molto e ho potuto visitare qualche parte della città e della Basilica di San Francesco che di solito non visitiamo.
Ora sta fiorendo il primo giacinto :-)
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おっしゃるとおり、脳って本当に不思議な、おもしろい領域ですよね。ファジー機能というのは脳にもあって、わたしたちもいつも集中していろんなことをできる状態にはありませんから、適当にこんなふうにするということを把握して、行動をコントロールすることも、疲れていたり気が散っていたりすることもよくあるようです。ジョギングのあとシャツを洗濯機に投げ込むつもりが、疲れていたので、「白くて丸いものの中に入れる」という大ざっぱな行動しか脳が指令を出さなかったために、トイレの中に投げ込んでしまったという女性のエピソードを本で読んだときにも、おもしろいなと思いました。
>二つ以上の言語を並行して使う場合に、頭の中で、きちんとそれぞれの言語の空間が仕切られている人と、複数の言語の空間が重なっている人がいるそうなのですが、
私も尚子さのレベルには到底及びませんが後者ですね。主人は確実に前者です。彼は、どんな環境でも、2カ国語どころか4カ国語をきちんと切り替えて話す事ができるのです。私は通訳時もそうですが翻訳に集中してる時など、イタリア語で話かけられると一瞬「音」としてしか理解できなかったりすることもありますから。とにかく音から脳が支配されることが多いようで、集中して翻訳や文章を書くときは音楽も聞けません。次回は是非、そんなお話を聞かせてください!
イタリア語の世界に身を置く時間が長いのに、英語力も維持しているのがすごいです。しかもフランス語まで勉強されているし。
わたしは、まだ数か月なのに、以前のようにさっと英語が出なくなり、かといってその分イタリア語力がアップしているわけでもないのが凹みます(笑)
巡礼中天気がいいといいですね~。また巡礼旅行の記事も楽しみにしています。
あ、ちなみにわたしの名前は漢字で書くと「直子」です。正直、率直の「直」なので、イタリア語では意味的にはFrancaにあたると説明することもあります。
日本でなら、テレビで英米ドラマの2か国語放送やテレビ・映画館で映画を字幕つきで見てと、英語に接する機会が多いのに、イタリアでは音声がことごとくイタリア語に吹き替えられてしまうので、そういう意味でも、英語力を維持するのは大変だと思います。わたしも語学学校で学んでいた頃は、英語で話す友人がいたり、大学では英語の授業があったり、試験勉強や卒論のために読まなければいけない本に英語の学術書や研究論文も多かったりしたので、英語に触れる機会はあったのですが、そういう機会が減ると、英語力の低下を痛感したので、英語の本を読んだり、インターネットの無料の音声教材を利用したり、日本から『English Journal』を年間購読して取り寄せたり、(つづく)
1・2か月こちらで英会話学校に通ったり(上級とは名ばかりでレベルが低いのでやめました)、イタリアに住んでいると、EJよりずっと安く入手できる、イタリア人向けの英語学習音声雑誌、『SpeakUp』を年間購読したり(詳しくはブログ内の記事を参考にしてください)して、時々さびを落としています。毎日少しこういうCDを聞いたり、本を読んだり、あるいは必要に駆られて、情報を英語で探したりするだけでも、英語力を保ったり、さびを落としたりことはできます。一番力が高かった時期に比べると、力はやはりかなり落ちていると思いますが。
とすかーなさんも、まずはイタリア語の勉強が大変だと思いますが、落ち着いたら、また英語の復習もされると、いったん十分に身につけた力は、時間はかかっても取り戻すことができるはずですよ。