2013年 06月 03日
聖体の祝日のミサで
アッシジは確かに聖フランチェスコが生まれ育ち、聖人が愛した町なのですが、清貧を愛する聖フランチェスコが、町から離れた森の中に築き、志を共にする仲間たちと祈りの日々を過ごした小さな教会、ポルツィウンコラは、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリの大きな聖堂の中に保存されています。ですから、聖フランチェスコの魂は、聖人の亡き後、ローマ教皇の意向でアッシジに建てられたみごとな大聖堂よりも、ポルツィウンコラやラヴェルナ、聖人が祈りと瞑想に過ごした、各地の小さな庵や自然の中にこそ感じられるような気が、わたしはします。
しかも、日曜の11時半から行われるミサで説教をする修道士の話がとても心を打つので、この教会はペルージャからは遠く、午後1時からの大家族での昼食に間に合わない可能性もあるものの、時々、遠出をして、ミサに参列しています。ただ、たいていはこの修道士が説教をするのですが、これまで、不在だったり、記念のミサだったりしたため、他の修道士やアッシジの司教が説教したこともあります。
昨日のミサの説教では、「神との対話は神と向かい合えばいいというものではなく、毎週日曜日に、ミサで聖体を拝領して、イエスがわたしたちのために十字架の上で死を遂げたことを思い、その愛とエネルギーを受け取り、たくさんの人に出会い、この愛を分けていくことだ。」という言葉が、印象に残りました。
わたしは夫とその家族が信仰深いので、ミサにもよく行きますし、巡礼にも何度か参加しましたが、カトリック教徒ではありません。イエスの教えや聖母マリアの生き方、聖フランチェスコの人生や、渡辺和子さんの著作、マザー・テレサの言葉にはとても魅かれるものの、一方で、ミサの祈りの中にもあるカトリック教の閉鎖性と排他的な姿勢が気になって、信者になることに踏み切れません。ですから、教会のミサで聞く説教も、「神やイエス」を、単にカトリック教会における神ではなく、普遍的に世界のさまざまな文化で、神、天と呼ばれ、畏敬される対象と置き換え、単にカトリック教徒に向けて話されたものではなく、何か普遍的な教えをそこに見出そうとして聞いています。
このミサの説教ではたとえば、「わたしたち人間は、皆フェラーリだけれども、自分たちだけでは、ガソリンのないフェラーリで、走ることができません。毎週日曜日に聖体を拝領して、そうやって、ガソリンを得て、初めて走ることができるのです。」という言葉があったのですが、その言葉も、「自分だけでよしとせず、何かもっと大きな、自分を越えた存在、神や天や自然、そうしたものから、学ぶ姿勢、活力を受ける機会をできるだけ持つように心がける必要がある。」と、自分の中で置き換えて聞いていたのではないかと思います。信者ではないので、ミサには参加しても、聖体は拝領しませんが、それでも、修道士の言う、「単に金銭や物を与えるのではなくて、自分自身の時間や努力、心を注いで、人に愛を分かち与えていくこと」の大切さは、身にしみて感じました。
「わずかのパンをいくつもに分けて、それがどんどん増えるのは、イエスが奇術師だからではなく、愛とは分かち合っても、減ることはなく、逆に豊かになっていくものだ。」という言葉は、そのとおりだと感じました。
「移民、受刑者など、社会的に迫害されている人のために、主よ……」と唱え、「離婚のために、形式的には、聖体を拝領できない人たちの心にも、ミサを通して、主の愛やエネルギーは注がれています。」と修道士がミサを締めくくるこの教会。カトリック教会のかたくなな姿勢のために、イタリアではことさらに差別・迫害を受けがちなゲイの人たち。本来、国政に干渉するべきではない宗教が、カトリック教が、イタリアにおける事実婚の夫婦や同性愛者の人々などの市民としての権利の獲得を阻害し、その人生に暗い影を落とすような差別発言を繰り返している現状。修道士のミサの言葉に感銘を受けつつも、カトリック教会の矛盾を感じつつ、外へ出ると、教会に入ったときには曇っていた空が、晴れわたっていました。
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Dalla messa nella Basilica di Santa Maria degli Angeli 2/6/2013
"Non date i soldi ma voi stessi, il vostro tempo, affetto agli altri."
"Il pane si moltiplica, non perché Gesù è prestigiatore, ma se si distribuisce l'amore, spezzandolo, esso non diminuisce ma anzi aumenta e arricchisce."
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外へ出て来たら綺麗な青空は気持ち良いですね。
何か、希望が沸いて来そうです。
心も豊かになって、元気出るでしょう。(^^)/
私の場合夫や義父は信仰が深くないのですが、身近に1人、
まるでマンマの様に可愛がってくれるサラのベビーシッターだった女性が信仰の深い女性で今でも日曜のミサの意味などをよく耳にすることがあります。
教会のミサで話されることから何か普遍的な教えを得ようとされるの、
なおこさんらしく、とても素敵です!私は日曜ミサには通ったがありませんが、カトリックの教えを聞いてみたいという思いもあるので、なおこさんのように構えず柔軟な姿勢で一度ミサに参加してみようかな?!
きっと、色々なことを気付かせてくれるのでしょうね!
ミサも説教の内容や選ばれる歌、音楽、聴衆がどれだけ歌や祈りの言葉の斉唱に参加するかなどなど、教会によっても、また、同じ教会でもそのときときによって違ってきます。せっかく足を運ばれるときのミサがすてきなものでありますように。聖書の一文一句を、まるで悪い古文の授業のお手本みたいに、意味を解説し、解釈を挙げていくだけで、実生活に即した、心に響く教えがなくて、どうかなというミサも時々あります。