2015年 02月 01日
木を見て森も見る外国語学習
1. 大まかに言わんとするところをとらえようとしますか。
2. 何か一つでも分からない、聞き取れない言葉や用法があると、そこでとどまってしまって、あとはほとんど聞き逃し、理解できずにうろたえてしまいますか。
3. 全体の概要をとらえながら、一つひとつの言葉にも注意を払っていますか。
脳の働きを考えると、1では右脳を、2では左脳を、3では、その両方を動員して、理解に努めていることになります。世界各国で行われる外国語学習・教育研究を通して、母語では、一般的に、話されること、書かれたことを理解するときは、「右脳で概要をとらえる→左脳で細部も確認する→二つの脳が得た情報を右脳で統合する」という形で、言語情報の処理が行われることが、分かっています。それで、外国語学習においても、読んだり聞いたりする際には、大まかな情報をつかみつつ、さらに細部にも気を配ることが、よりよく理解するためには、大切だと言われています。
それが、たとえば従来の日本の学校英語教育に見られるように、単語や文法から文を理解するという分析的な学習法に慣れていると、つい「2」の例のように、細部の情報が一つでも欠けると、全体像が見えなくなってしまうことがあります。逆に、特に、学ぶ対象である外国語が、自分の母語やすでに習得している言語に近い場合や、その言語が話されている地域に暮らしながら、習得している場合には、既存の知識と、会話の状況や前後の文脈にばかり依存してしまい、「1」の例のように、理解が大ざっぱになってしまい、細かいところで、情報が正しく理解できておらず、また、学習のつめが甘いので、いつまで経っても語彙や文法の知識が大ざっぱで、発信の際に、言わんとすることは伝えられるけれども、表現に問題が多いという状況になってしまいます。
理想はもちろん「3」の在り方です。こんなふうに理解を図る習慣をつけるためには、平素からの外国語の学習でも、「多読・多聴に努め、映画など非言語情報の多い教材を利用するなどして、概要をとらえる習慣を養う」一方、「知っている語彙や文法事項、その用法を増やしていき、細かな点まで、正確に理解できるように努める」必要があります。
幼い子供が言語を学んでいくときは、書き言葉を介さずとも、話しながら、聞きながら、自然に学んでいくのだから、大人もそうやって、直接その言語が話される環境で暮らせば、効率的に対象言語を学ぶことができる。そんなふうに提唱した学者がかつていましたし、今もいるかもしれません。けれども、母語と学習しようとする言語の言語体系がどれだけ似ているか、離れているかということを抜きにしても、幼い子供は、世界を認識・把握することを学ぶのと並行して、言語を身につけていく、つまり思考能力の発達と言語の発達が共に行われるのに対して、大人になってしまうと、すでに、認識力や思考能力は、母語を通して身につけていますから、新しい言語を学ぶ際にも、知らぬうちに、その既存の枠の影響を大きく受けてしまいます。外国語学習において母語が及ぼす影響が特に大きいのは、発音に関してです。近年の研究では、さらに、子供は生まれた時点では、あらゆる音の違いを聞き分けるようになれる潜在能力を持っているのに、母語で話すことができるようになる前の時点で、自らの母語に必要な音の聞き分けだけが、すでにできるようになっているというのです。日本人はRとLの違いが聞き取れないことについては、アメリカ在住の日本からの長期在住移民を対象にした研究でも、よく取り上げられていますが、そうした研究では、大人になってから渡米した移民で、ネイティブ同様に英語が話せるようになった場合でも、RとLの音が聞き分けられる場合はきわめてまれだけれども、多くの移民が自らが発信するときにはRとLをきちんと発音し分けられるようになっているので、努力によって、違いが聞き取れずとも、発音は仕分けることができるようになるという結果が出ています。
話がかなり逸れてしまったのですが、要は、大人になってから外国語を学ぶ場合には、特に、欧州言語とは非常に異なる言語体系を持つ日本語を母語とするわたしたちは、外国語を学ぶのに、まったく勉強をせずに、その国に飛び込んだのでは、学習の効率が悪いし、一方、日本にいて、文法や単語ばかり通して勉強をして、会話や話の運びがその言語ではどう行われるかという例に接することがないと、それもまた「2型」の偏った理解の仕方や能力しか育たないことになると言いたかったのです。
もともとは、自分自身のフランス語学習の在り方を深く反省して、書き始めた記事です。学習中のフランス語の文法や語彙に、既習のイタリア語や英語との共通点・類似点が多いため、つい多読や多聴など、「大ざっぱに理解する」訓練ばかりに偏って、文法や語彙を、問題を解いたり、辞書を引いたりして、まめに勉強することを怠ったまま、歳月が過ぎてしまい、話す力、聴き取る力、そして、書く力が、いつまでもざるのように穴だらけです。2015年ももう1か月が終わってしまいました。昨日の記事に書いた志を実現するためにも、今後は、『bien-dire』のCDを聞き流してしまうのではなく、精聴の時間を、細切れの時間であっても取るようにすること、そうして、聴解や読解ではなく、語彙や文法の学習に焦点をあてた問題集を、こつこつ解いていくことを、自分に課すつもりでいます。恥ずかしながら、1月中に、精聴ができたのはわずか1日、問題集を解いたのは、わずか2日だけです。それでも、すでにその大きな効果が実感できたので、今月以後は、さらに頑張ります。
読書中のジュール・ヴェルヌの小説、『海底二万里』では、主人公たちが潜水艦で主に海中や海底を通って、世界を回るので、profond「深い」という形容詞やprofondeurという女性名詞は、すでに何度も小説中に登場していたはずです。それが、該当する単語が、それぞれイタリア語でprofondo、profonditàであることを知っているため、そういう意味だろうと、勘で読み飛ばしてはいたのですが、「深さをフランス語でどう書くか」と問われれば、おそらく正しく書くことができなかったであろう上に、その形容詞を記せという問題に、間違ってprofondeと、-eのついた女性形を書いて、答えてしまったのです。火曜日にこう学習したおかげで、今は、小説中にこの二つの単語が出てくるたびに、問題集で学んだことの定着が図れています。
以上は、ペルージャ外国人大学の学士取得課程およびシエナ外国人大学の大学院課程で、それぞれ、外国人へのイタリア語・イタリア文化教育、外国語としてのイタリア語教授法を専攻していたときに、授業中に先生方から聞き、あるいは関連の専門書を読んで学んだことを、思い出しながら書いたものです。
「森を見る」、つまり大まかに全体像を理解する訓練や姿勢を忘れずに、けれども、同時に、「木を見る」必要、つまり、細部まできちんと理解できるように、文法や語彙、つづりなどを、ていねいに、正確に学んでいきたいと、考えています。
実は、今わたしが個人授業で日本語を教えている生徒さんも、日本語でたくさん話したいし話せるけれども、勉強のつめが甘く、わたしの説明に耳を傾けて、「どうして間違えたのか、伝わらないか」を省みることをあまりせず、説明や復習を厭って、そのまま突っ走るために、同じ間違いを繰り返す傾向があります。教えるにあたっても、学ぶにあたっても、細部をしっかり押さえて、つめが甘くならないようにするつもりです。
写真は、木曜日にペンナ山を登ったときのものです。倒れているこの大木があまりにも大きいので、木をまたぐ代わりに、遠回りをして、木の根元の下方を通って、木の向こうへと歩いたら、おかげで右端の木にある巨大なキノコの写真が撮れたのはいいのですが、その後、トレッキングコースを見失ってしまい、しばらく別の道を歩くことになりました。これは、一本の木にとらわれすぎて、森が見えなかった例と言えるかもしれません。
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Un grande albero mi impediva il passaggio,
ho girato intorno, ho fotografato i grande funghi su un albero (a sinistra)
e così ho perso il sentiero che per fortuna avrei ritrovato dopo.
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今日の記事はなかなか興味深い記事でした(^^♪
1、では右脳を使い、2、では左脳を、そのどちらに偏っても語学の学習はきちんと習得できない!ということがよくわかりました(^-^)
私はどうも、1、に偏って学習する方みたいです(笑)
2、は余程の根性がないと、大人になってからは難しいですよね^^;
最後の木に例えたのはなかなかオチがよかったです♪
これは、語学学習のみならず、人間の生き方もそうなのかもしれないなあ?と思いました。右脳と左脳、どちらも使い分けながら有意義な人生を生きていきたいと思います♪
市場に来る人たちには語学留学する外国人の方も沢山いらっしゃいます。新しいコースが始まったので話をきくと、先生が変わったことで勉強の仕方が変わり、とまどいを隠せないかたが多いようです。良くも悪くもこういうことは仕方のないものかもしれませんが、例えば私がイタリア語を学んでいたとき、やたら本を読ませる先生がいました。私はすっかり嫌気がさし、このままではイタリア語も嫌いになってしまうような感じがしてその先生のコースはわざと避けて、自分で勉強していました。何が悪いというわけではありませんが、人間には向き不向きというのがあり、語学への探究心というのもいろんな角度からあっていいのではと思った理由からでした。
おっしゃるように、語学学習のみならず、人間の生き方にも、どんなふうに物事を判断・分析するかにも、つながっていくことだと思います。たとえば、巡礼のときに道を間違えないためには、「~の道しるべで右に曲がって……」という詳細な記述も大切ですが、それだけでだと、万一その道しるべを見逃したときや、勘違いしたときに困るのであって、全体にどういう方角に進まなければいけないかを把握するために、地図の中で自分の位置や向かうべき方向を押さえていく必要もあるんですよね。人生でも、目の前のことばかりではなくて、自分がどういう方向に向かいたいのか、今どういう位置にいるかを考えることが大切ですよね。それができていないと、そう言えば時々夫に言われるような……
そうそう、イタリア語を勉強し始めた頃に、半額になっていて飛びついた電子辞書、実は安くなっていた理由がなおこさんが書いておられたように、辞書の中に出てくる例文のイタリアの通貨が、リラになっていからでした。買ってから気が付いたのですが、内容は変わらないし、良い買い物をしたと、その電子辞書、今も使っています。でも本は、改訂版もすぐに出ただろうに、旧通貨の表示のままの本が今も、というのは、ちょっと辛いものがありますね。
でも、実は、それは教え方、指導の仕方次第なのですが、他教科の先生でさえ、そう信じて国語の勉強を軽んじる人がいるので(そういう国語の先生がいないことを祈ります)、できない子がさらに国語の勉強を怠り、社会人になっても、社会で必要とされるだけの母語の力がなくて迷惑をかけてしまうのではないでしょうか。いえいえ、かずさん、日本語をもっと大切にという点では、わたしも猛省しなければいけません。ブログを書くようになったおかげで、教える日本語のレベル以上の、きちんとした日本語を書く習慣、それを通して、語彙や漢字を確認する習慣ができたのが幸いですが、昔なら迷いもしなかったような漢字で、こうだったかなと迷ったり、思いつけなかったりして、情けなく感じることがあります。
リラは残念ですが、半額はお得ですよね。外国語の入門書は、特に英語以外については、一度書いてしまうと、改訂がめったにないものも多いようですが、言葉は生き物でもあるので、やはり時々は見直しを図る必要があると思います。
私は2に偏りがちです…語学学習に限らず、仕事も私事も、かな。いや、立ち止まって考えるならまだしも、立ち止まり、立ち尽くしたまま忘れ去る…です。思うに探究心や好奇心があまり無いんだな、と、自分を省みています。
Olivaさんはそうすると考えて進めなくなりがちなハムレット型なのですね。石橋をたたいて渡ることは大切ですが、いつかは渡らなければいけないので、そういうときは少しドンキホーテに倣う必要があるかなと、わたしもどちらかというと逡巡しがちで、どんどん事を決めていく、イタリア人の夫や友人たちを見て、そう感じることがあります。探究心や好奇心は十分におありで、きっととても慎重だからだと思いますよ。まあ、旅や山歩きに行くときでさえ、わたしは天気予報を見て衣類を準備したり宿は予約しておいたりしたいのですが、夫や友人はまず出かけよう、行った先で決めようとしたがるので、そういうところには国民性の差が表れているのかもしれませんが。