イタリア写真草子 ウンブリア在住、日本語教師のイタリア暮らし・旅・語学だより。

木を見て森も見る外国語学習

 外国語で何かを理解しようとしているとき、それは、会話中でも、人の話を聞いているときでも、読んでいるときでもいいのですが、そんなとき、皆さんは、どんなふうに理解しようとされていますか。

1. 大まかに言わんとするところをとらえようとしますか。
2. 何か一つでも分からない、聞き取れない言葉や用法があると、そこでとどまってしまって、あとはほとんど聞き逃し、理解できずにうろたえてしまいますか。
3. 全体の概要をとらえながら、一つひとつの言葉にも注意を払っていますか。

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Bosco del Monte Penna, La Verna 29/1/2015

 脳の働きを考えると、1では右脳を、2では左脳を、3では、その両方を動員して、理解に努めていることになります。世界各国で行われる外国語学習・教育研究を通して、母語では、一般的に、話されること、書かれたことを理解するときは、「右脳で概要をとらえる→左脳で細部も確認する→二つの脳が得た情報を右脳で統合する」という形で、言語情報の処理が行われることが、分かっています。それで、外国語学習においても、読んだり聞いたりする際には、大まかな情報をつかみつつ、さらに細部にも気を配ることが、よりよく理解するためには、大切だと言われています。

 それが、たとえば従来の日本の学校英語教育に見られるように、単語や文法から文を理解するという分析的な学習法に慣れていると、つい「2」の例のように、細部の情報が一つでも欠けると、全体像が見えなくなってしまうことがあります。逆に、特に、学ぶ対象である外国語が、自分の母語やすでに習得している言語に近い場合や、その言語が話されている地域に暮らしながら、習得している場合には、既存の知識と、会話の状況や前後の文脈にばかり依存してしまい、「1」の例のように、理解が大ざっぱになってしまい、細かいところで、情報が正しく理解できておらず、また、学習のつめが甘いので、いつまで経っても語彙や文法の知識が大ざっぱで、発信の際に、言わんとすることは伝えられるけれども、表現に問題が多いという状況になってしまいます。

 理想はもちろん「3」の在り方です。こんなふうに理解を図る習慣をつけるためには、平素からの外国語の学習でも、「多読・多聴に努め、映画など非言語情報の多い教材を利用するなどして、概要をとらえる習慣を養う」一方、「知っている語彙や文法事項、その用法を増やしていき、細かな点まで、正確に理解できるように努める」必要があります。

 幼い子供が言語を学んでいくときは、書き言葉を介さずとも、話しながら、聞きながら、自然に学んでいくのだから、大人もそうやって、直接その言語が話される環境で暮らせば、効率的に対象言語を学ぶことができる。そんなふうに提唱した学者がかつていましたし、今もいるかもしれません。けれども、母語と学習しようとする言語の言語体系がどれだけ似ているか、離れているかということを抜きにしても、幼い子供は、世界を認識・把握することを学ぶのと並行して、言語を身につけていく、つまり思考能力の発達と言語の発達が共に行われるのに対して、大人になってしまうと、すでに、認識力や思考能力は、母語を通して身につけていますから、新しい言語を学ぶ際にも、知らぬうちに、その既存の枠の影響を大きく受けてしまいます。外国語学習において母語が及ぼす影響が特に大きいのは、発音に関してです。近年の研究では、さらに、子供は生まれた時点では、あらゆる音の違いを聞き分けるようになれる潜在能力を持っているのに、母語で話すことができるようになる前の時点で、自らの母語に必要な音の聞き分けだけが、すでにできるようになっているというのです。日本人はRとLの違いが聞き取れないことについては、アメリカ在住の日本からの長期在住移民を対象にした研究でも、よく取り上げられていますが、そうした研究では、大人になってから渡米した移民で、ネイティブ同様に英語が話せるようになった場合でも、RとLの音が聞き分けられる場合はきわめてまれだけれども、多くの移民が自らが発信するときにはRとLをきちんと発音し分けられるようになっているので、努力によって、違いが聞き取れずとも、発音は仕分けることができるようになるという結果が出ています。

 話がかなり逸れてしまったのですが、要は、大人になってから外国語を学ぶ場合には、特に、欧州言語とは非常に異なる言語体系を持つ日本語を母語とするわたしたちは、外国語を学ぶのに、まったく勉強をせずに、その国に飛び込んだのでは、学習の効率が悪いし、一方、日本にいて、文法や単語ばかり通して勉強をして、会話や話の運びがその言語ではどう行われるかという例に接することがないと、それもまた「2型」の偏った理解の仕方や能力しか育たないことになると言いたかったのです。

 もともとは、自分自身のフランス語学習の在り方を深く反省して、書き始めた記事です。学習中のフランス語の文法や語彙に、既習のイタリア語や英語との共通点・類似点が多いため、つい多読や多聴など、「大ざっぱに理解する」訓練ばかりに偏って、文法や語彙を、問題を解いたり、辞書を引いたりして、まめに勉強することを怠ったまま、歳月が過ぎてしまい、話す力、聴き取る力、そして、書く力が、いつまでもざるのように穴だらけです。2015年ももう1か月が終わってしまいました。昨日の記事に書いた志を実現するためにも、今後は、『bien-dire』のCDを聞き流してしまうのではなく、精聴の時間を、細切れの時間であっても取るようにすること、そうして、聴解や読解ではなく、語彙や文法の学習に焦点をあてた問題集を、こつこつ解いていくことを、自分に課すつもりでいます。恥ずかしながら、1月中に、精聴ができたのはわずか1日、問題集を解いたのは、わずか2日だけです。それでも、すでにその大きな効果が実感できたので、今月以後は、さらに頑張ります。

 読書中のジュール・ヴェルヌの小説、『海底二万里』では、主人公たちが潜水艦で主に海中や海底を通って、世界を回るので、profond「深い」という形容詞やprofondeurという女性名詞は、すでに何度も小説中に登場していたはずです。それが、該当する単語が、それぞれイタリア語でprofondo、profonditàであることを知っているため、そういう意味だろうと、勘で読み飛ばしてはいたのですが、「深さをフランス語でどう書くか」と問われれば、おそらく正しく書くことができなかったであろう上に、その形容詞を記せという問題に、間違ってprofondeと、-eのついた女性形を書いて、答えてしまったのです。火曜日にこう学習したおかげで、今は、小説中にこの二つの単語が出てくるたびに、問題集で学んだことの定着が図れています。

 以上は、ペルージャ外国人大学の学士取得課程およびシエナ外国人大学の大学院課程で、それぞれ、外国人へのイタリア語・イタリア文化教育、外国語としてのイタリア語教授法を専攻していたときに、授業中に先生方から聞き、あるいは関連の専門書を読んで学んだことを、思い出しながら書いたものです。

 「森を見る」、つまり大まかに全体像を理解する訓練や姿勢を忘れずに、けれども、同時に、「木を見る」必要、つまり、細部まできちんと理解できるように、文法や語彙、つづりなどを、ていねいに、正確に学んでいきたいと、考えています。

 実は、今わたしが個人授業で日本語を教えている生徒さんも、日本語でたくさん話したいし話せるけれども、勉強のつめが甘く、わたしの説明に耳を傾けて、「どうして間違えたのか、伝わらないか」を省みることをあまりせず、説明や復習を厭って、そのまま突っ走るために、同じ間違いを繰り返す傾向があります。教えるにあたっても、学ぶにあたっても、細部をしっかり押さえて、つめが甘くならないようにするつもりです。

 写真は、木曜日にペンナ山を登ったときのものです。倒れているこの大木があまりにも大きいので、木をまたぐ代わりに、遠回りをして、木の根元の下方を通って、木の向こうへと歩いたら、おかげで右端の木にある巨大なキノコの写真が撮れたのはいいのですが、その後、トレッキングコースを見失ってしまい、しばらく別の道を歩くことになりました。これは、一本の木にとらわれすぎて、森が見えなかった例と言えるかもしれません。

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Un grande albero mi impediva il passaggio,
ho girato intorno, ho fotografato i grande funghi su un albero (a sinistra)
e così ho perso il sentiero che per fortuna avrei ritrovato dopo.
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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Commented by ayayay0003 at 2015-02-02 22:24
なおこさん、こんばんは^^
今日の記事はなかなか興味深い記事でした(^^♪
1、では右脳を使い、2、では左脳を、そのどちらに偏っても語学の学習はきちんと習得できない!ということがよくわかりました(^-^)
私はどうも、1、に偏って学習する方みたいです(笑)
2、は余程の根性がないと、大人になってからは難しいですよね^^;
最後の木に例えたのはなかなかオチがよかったです♪
これは、語学学習のみならず、人間の生き方もそうなのかもしれないなあ?と思いました。右脳と左脳、どちらも使い分けながら有意義な人生を生きていきたいと思います♪
Commented by nagisamiyamoto at 2015-02-03 01:25
なおこさん、こんばんは
市場に来る人たちには語学留学する外国人の方も沢山いらっしゃいます。新しいコースが始まったので話をきくと、先生が変わったことで勉強の仕方が変わり、とまどいを隠せないかたが多いようです。良くも悪くもこういうことは仕方のないものかもしれませんが、例えば私がイタリア語を学んでいたとき、やたら本を読ませる先生がいました。私はすっかり嫌気がさし、このままではイタリア語も嫌いになってしまうような感じがしてその先生のコースはわざと避けて、自分で勉強していました。何が悪いというわけではありませんが、人間には向き不向きというのがあり、語学への探究心というのもいろんな角度からあっていいのではと思った理由からでした。
Commented by milletti_naoko at 2015-02-03 03:29
アリスさん、こんばんは。昨晩、字だけでもつまらないからと、何かいい図がないかなと、昔のノートをぱらぱらめくっていたら、コミュニケーションでの発信にあたって、「言いたい内容に重点を置く」場合と、「それをどう表現するかに重点を置く」場合があると書いてあって、それぞれ、1と2に対応していて興味深いなと思いました。1に重点を置くのは、「今ここでの状況を切り抜けるにはどうするか」の方を重視するからでもあり、アリスさんのように音楽などを愛する方は、右脳を使うことが多いので、そのためかなという気がします。

おっしゃるように、語学学習のみならず、人間の生き方にも、どんなふうに物事を判断・分析するかにも、つながっていくことだと思います。たとえば、巡礼のときに道を間違えないためには、「~の道しるべで右に曲がって……」という詳細な記述も大切ですが、それだけでだと、万一その道しるべを見逃したときや、勘違いしたときに困るのであって、全体にどういう方角に進まなければいけないかを把握するために、地図の中で自分の位置や向かうべき方向を押さえていく必要もあるんですよね。人生でも、目の前のことばかりではなくて、自分がどういう方向に向かいたいのか、今どういう位置にいるかを考えることが大切ですよね。それができていないと、そう言えば時々夫に言われるような……
Commented by milletti_naoko at 2015-02-03 03:38
なぎささん、こんばんは。お仕事柄、外国人と言っても、いろいろな方に会われる機会が多いんですね! 先生が変わると、勉強の仕方が変わるということは、おっしゃるように、いい意味でも悪い意味でもありますよね。教え方にも扱う教材にも、そうして実際に話す言葉や話し方にも、先生によって違いがあるので、複数の先生から学べるのが理想的ではないかと思います。人柄についても、授業の仕方についても、好みやあたりはずれというのも、あると思います。本を読ませるというのも、何かの一節を読んで、それをきっかけに歴史や文化、語彙やそれぞれの考えなどにつなげて、会話や作文に発展させていけば、読む内容によってはおもしろいこともあるけれど、読むだけでは退屈するのもやむないところがあって、本や内容の好ききらいも関わってきますよね。わたしも高校生の頃、ある先生の授業をきっかけに数学のおもしろさに目覚めたのに、学年が上がって別の先生に教わることになり、授業の好ききらいや相性もあるのでしょう、数学がつまらず、難しくなったように覚えているので、おっしゃることがよく分かる気がします。それでも、自分で勉強を続けようとされたなぎささん、すばらしい! おっしゃるように語学への探究心も、教材も、勉強のしかたも、いろんな角度や方法があるのであって、だからおもしろいのだと思います。
Commented by kazu at 2015-02-03 23:20 x
なおこさん、こんばんは。なおこさんのおっしゃること、前回のお話も合わせて見にしみて思います。日本語でも、最近の若い方達は、言葉を知らないことも多くて、信じられないような文章を作ります。プレゼンの資料を作成しても、メールの内容にしても、つい黙っていられなくて、修正を入れるのですが、国語は、外国語も含めてバランス良く学習しないと、正しい言葉は使えないものだなぁとつくづく思います。と言いながら自分自身にも当てはまるので、なおこさんの今回の記事に猛省して、発奮しなければと、ほんとに良いお話を聞かせて頂きました。

そうそう、イタリア語を勉強し始めた頃に、半額になっていて飛びついた電子辞書、実は安くなっていた理由がなおこさんが書いておられたように、辞書の中に出てくる例文のイタリアの通貨が、リラになっていからでした。買ってから気が付いたのですが、内容は変わらないし、良い買い物をしたと、その電子辞書、今も使っています。でも本は、改訂版もすぐに出ただろうに、旧通貨の表示のままの本が今も、というのは、ちょっと辛いものがありますね。
Commented by milletti_naoko at 2015-02-04 06:39
かずさん、こんばんは。かずさんが職場で若い方と接していても、そういう傾向が感じられるんですね! わたしは愛媛県の三つの県立高校で計12年間国語を教えたのですが、そのわずかな間でさえ、生徒たちの書く力がどんどん下がっていくのが感じられました。活字離れや、親や地域の人など、世代が違う人との交流が少なくなっていることが主な原因だと思いますが、そうやって、母語の力さえ危うい子が多いというのに、幼い頃から中途半端に英語教育を導入し、高校では大学受験で配点の高い英語や数学に割く授業時間を増やすといった、学校教育の在り方にも、大いに問題があると思います。読書感想文や大学入試小論文などの長い文章を書かせる指導をすると、まずは何を書いていいか分からない、自分の考えをどう論理的に展開させたらいいか分からない、実はその前に、主題に対して自分が何を考えているか、どう考えていいかが分からないというところから、指導をしなければいけない生徒が大勢いました。要するに、考える力、論理的思考力が、育っていないということ、そういう考えを培うための語彙や、批判的読みの力がない高校生が多かったということです。この文章は、社会人の方を読者と想定して書いているのですが、若い人には、少なくとも高校生までは、国語の力をしっかりつけてほしいと考えています。国語はいくら勉強しても点数が変わらないというのは、まったくの誤解で、実は、母語の力というのは身につけるべき内容が膨大であるために、それまでの人生で読書や書く習慣を通して培ってきた力がある生徒と、それがない生徒、たとえば、本も新聞もほとんど読まず、語彙や思考力、漢字や接続詞の使い方もおぼつかない生徒の間には、学校で1年2年数学や歴史を学んだ生徒と勉強をしなかった生徒に比べて、大きな大きな実力の差があるため、つけやきば的な勉強では、なかなか点数が上がらないように見えるだけなのです。(つづく)
Commented by milletti_naoko at 2015-02-04 06:39
かずさんへ(上からの続きです)
でも、実は、それは教え方、指導の仕方次第なのですが、他教科の先生でさえ、そう信じて国語の勉強を軽んじる人がいるので(そういう国語の先生がいないことを祈ります)、できない子がさらに国語の勉強を怠り、社会人になっても、社会で必要とされるだけの母語の力がなくて迷惑をかけてしまうのではないでしょうか。いえいえ、かずさん、日本語をもっと大切にという点では、わたしも猛省しなければいけません。ブログを書くようになったおかげで、教える日本語のレベル以上の、きちんとした日本語を書く習慣、それを通して、語彙や漢字を確認する習慣ができたのが幸いですが、昔なら迷いもしなかったような漢字で、こうだったかなと迷ったり、思いつけなかったりして、情けなく感じることがあります。

リラは残念ですが、半額はお得ですよね。外国語の入門書は、特に英語以外については、一度書いてしまうと、改訂がめったにないものも多いようですが、言葉は生き物でもあるので、やはり時々は見直しを図る必要があると思います。
Commented by oliva16 at 2015-02-11 07:02
なおこさん、興味深い記事をありがとうございます。
私は2に偏りがちです…語学学習に限らず、仕事も私事も、かな。いや、立ち止まって考えるならまだしも、立ち止まり、立ち尽くしたまま忘れ去る…です。思うに探究心や好奇心があまり無いんだな、と、自分を省みています。
Commented by milletti_naoko at 2015-02-11 19:53
Olivaさんはお仕事で翻訳をされている上、学習会にも参加されているので、細部まで入念に注意を払われるのはとても大切なことですよね。ただ、翻訳でも、どういう文脈にあるかによって文の訳し方ががらりと変わってくるように、全体的にどういうことが言われているか、書かれているかをとらえることは、あとから聞き返すのが難しい会話・講演などでは特に必要になります。翻訳や音声の書き起こしなどのお仕事で、最初にひととおり読んだり聞いたりするとき、あるいは、ふだん日本で新聞を読むときやイタリア語やドイツ語の映画やニュースをご覧になるときに、特にビデオやインターネットで繰り返し見聞きできるものについては、最初は概要をつかみ、二度目以降に細部に留意するようにすると、全体もとらえられる習慣がつくと思います。

Olivaさんはそうすると考えて進めなくなりがちなハムレット型なのですね。石橋をたたいて渡ることは大切ですが、いつかは渡らなければいけないので、そういうときは少しドンキホーテに倣う必要があるかなと、わたしもどちらかというと逡巡しがちで、どんどん事を決めていく、イタリア人の夫や友人たちを見て、そう感じることがあります。探究心や好奇心は十分におありで、きっととても慎重だからだと思いますよ。まあ、旅や山歩きに行くときでさえ、わたしは天気予報を見て衣類を準備したり宿は予約しておいたりしたいのですが、夫や友人はまず出かけよう、行った先で決めようとしたがるので、そういうところには国民性の差が表れているのかもしれませんが。
by milletti_naoko | 2015-02-01 23:10 | ImparareL2 | Comments(9)