2015年 10月 07日
片づけと健康1、モンテカサーレの庵

その本に挙げられていた例は、たとえばはがきを1枚書くのに、5分しかない人は5分で書いてしまうけれども、2時間ある人は2時間かけてしまうといったものだったように記憶しています。このことは昔から、たとえば授業の準備をするときなどに痛感していて、あと3時間しかないと思えば、きっと3時間で済むはずの教材研究に、高校で教えていた頃は、時間もないので睡眠時間をけずって、十数時間かけてしまったりしていました。翻訳の仕事も同様で、完璧に仕上げようと思うと、何度見直しても、何時間かけてもきりがないので、報酬やほかの仕事・用事などとの兼ね合いから、「これだけの時間をかける」と最初にしっかり決めておく必要をつくづく感じています。

モンテカサーレの庵にある聖アントーニオの僧坊
少し話が逸れましたが、今回お話したかったのは、ひょっとしたら、時間や仕事だけではなく、空間にも似たようなことが言えるのではないかと、感じているということです。『方丈記』を書いた鴨長明のように、一丈四方の組み立て式の家に暮らし、住む場所が気に入らなければ場所を変えるというような生活をしたり、清貧に生きた聖フランチェスコに従った、フランチェスコ会の修道士たちのように、庵や修道院で、木づくりの粗末なベッドだけが置かれた、2畳ほどの部屋に寝起きしたりと、ごく狭い空間に暮らしていれば、持ち物も自然に少なくなるのではないか。住む家が大きくて、部屋や収納場所が多いと、やたら置く場所があるものだから、空間があるものだから、物も増えてしまうのではないか。要するに、人の持ち物も、居住する空間が広ければ広いほど、置き場所があればあるほど、増えてしまいがちなのではないかと、この近年、感じているのです。

日本で一人暮らしをしていた頃、今治で1DKのアパートに暮らしていたときに比べて、南予の教員住宅に住み始めてから、家が3DKと家族向けで大きかったために、物がとんでもなく増えてしまいました。イタリアに住み始めてからも、ホームステイ先や共同アパートのシングル・ルームや、ミニアパートの16平方メートルの部屋に暮らしていたときには少なかった持ち物が、夫と暮らし始めて、部屋の数が増えると、一気に増えてしまいました。もちろん、それは、大学で勉強したり教えたりするのに必要な本や紙類、翻訳や通訳の仕事に際して出てくる紙類、夫と山登りや巡礼に出かけるためのリュックサックに寝袋など、仕事や趣味のために、何かと物が増えてしまったからでもあります。

わたしは、幼い頃から中学校3年生まで、父の仕事の都合で、横浜から札幌へ、札幌から東京へ、そうして東京から松山へと、しばしば引っ越しをしました。そのたびに、引越し業者がやって来て、わたし自身の持ち物についても、一つひとつについて、持って行くべきかどうかと、検討したように覚えています。一方、うちの夫は、生まれたときから、かなり大きい家に暮らし続けてきました。夫の家が富裕だからというわけでは決してなくて、教区司祭として働いていた今は亡き伯父を支えるために、義父母が常に、伯父が勤めていた教会に付属した大きな大きな住居に暮らしていたからです。家が大きくても、そのために暖房効率がひどく悪くて寒かったり、使われていない部屋が多かったりしたようですが、おそらくはそういう理由から、義父母も夫も、やたら置く場所があるものだから、いろんなものを大切に取っておいて、なかなか捨てられないようです。
それも、自分たちが使ってきた家具だけを大切に取っているわけではなく、親戚が引っ越しなどに際して不要になった家具やストーブ、食器類まで、広いガレージに所狭しと並んでいるのです。古いストーブやガスコンロがミジャーナの改築中の家で使えるかもしれないと義父母は言うのですが、けれども、ミジャーナで何かの家具が必要だという話になると、義母や夫は、新しいものを買った方がいいと言うのです。ではいったい、何のために、こうした家具たちは、ガレージを占領しているのでしょう。

ただ、戦中・戦後の貧しい時代に生きた義父母が、物を大切に使う姿勢は、すばらしいとわたしも思っています。そうして、昔は業者も、しばらくすると壊れて買い替えが必要になるものを作るのではなく、いつまでも長く大切に使える製品を作っていたのだなと、感心しています。と言うのも、我が家のガレージには、50年近くも使われていながら、いまだに現役の自動車、チンクエチェントと冷蔵庫があるからです。

いつかフェイスブックで見かけた、こんな言葉を思い出します。いつまでも仲むつまじいお年寄りの夫婦の絵に、確か、「わたしたちは、物が壊れたら捨てるのではなくて、直して使う時代に生きてきたから。」といった言葉が添えられていたように思います。

前置きのつもりで書き始めた部分が長くなってしまいましたので、今日はここまでとします。続きは明日書くつもりでいます。
Eremo di Montecasale
Località Montecasale - 52037 Sansepolcro (AR)
Info: Il Sentiero di Francesco – Eremo di Montecasale
I luoghi del Silenzio - Eremo di Montecasale – Sansepolcro (AR)
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Eremo di Montecasale, Sansepolcro (AR) 4/1/2015
Cella di Sant'Antonio & Statua di San Francesco
Quiete e bellezza dell'eremo illuminato dalla luce dl tramonto
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- おっとびっくり / Cinquecento & Frigo (1/12/2012)
↑ 使用歴約50年、まだ現役で活躍しているチンクエチェントと冷蔵庫について。
- 聖フランチェスコの日に / Nel giorno di San Francesco (4/10/2012)
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「人間は何かをするのに、自分が使えるだけの時間を費やしてしまう」・・・確かにその通りですネ^^;
誰かと待ち合わせしていて出かける準備するだけでも、時間があるとだらだらと洋服を選んだり持ち物を決められなかったりするけど、時間がない時はそれなりにできてしまいます。こんな単純なことでもそうだから、仕事などはきりがないでしょうね!
空間にあてはめるところがなおこさんの凄いところですネ!
でも、確かに、私も独身で大阪に住んでいた頃から比べると、既婚者で家庭を持った今とでは、自分の荷物に限ってもかなり増えてしまい困ってます^^;
義母が貰った何かの引き出物が台所の改装で沢山出てきて、リサイクルショップに持って行ったりしましたが、もったいなくて置いているものもあります(苦笑)
↑でも、今度は、そういうものの一部は出して使用しています。もったいないから出して使わないと一生使えないからです(笑)
今日の記事は大変ありがたいことを書いててくださりありがとうございます♪
お写真も秋でほんとに素敵ですね☆
引き出物でもったいないから使えないというもの、ありますよね。うちにも来客用のお皿のセットがあって、今実際に使っているものは古くなって、ひびが入ったり裏が一部欠けたりしている皿もあるので、夫には反対されそうですが、そういう皿は処分して、来客用のお皿を、ふだんの日使いにしたいなと考えています。毎日お皿を見てうれしくなれるし、その方が食器も活躍できる機会が増えてうれしいことでしょう。こちらこそ、いつもうれしいコメントをありがとうございます♪
修道士たちの小さい部屋の写真(2枚目)を例として載せようと考えて、ついでにこの僧坊がある庵の写真も使ってみました。トスカーナとウンブリア州の境にある、フランチェスコ会の修道院です。撮影したのは今年1月4日なのですが、夕日に照らされて、建物も木々も赤く見えて、確かに紅葉のようですね。