2016年 07月 07日
ロボコンと日本語のゆくえ
ロボコンと聞いて、わたしの頭に思い浮かぶのは、こちらのロボコンです。幼い頃に見た番組で、はっきり記憶に残っているのは、「為せば成る為さねば成らぬ何事も」というエンディングのサビの部分くらいだったので、今回、YouTubeで見つけたオープニングの映像を、「こんな歌、こういう番組だったのね」と驚きながら見ました。
ちなみにエンディングは、こちらのリンク先映像の3分8秒目から収録されています。
けれども、『みんなの日本語』で問われているた「ロボコン」は、「ロボットコンテスト」のことなのでした。日本の若者文化に詳しい生徒さんは、「ロボットコンテスト」のことだと知っていたのですが、わたしは授業前に、付属の解答集を見てはじめて、ロボットコンテストのことをロボコンと言うことを、知りました。わたしがイタリアに暮らし始めた翌年には、なんと『ロボコン』(Robot Contest)という題名の映画まで上映されているではありませんか。
予告を見て、おもしろそうだな、見てみたいなと思いました。
まだわたしが日本に暮らしていた頃から、携帯電話を単に「携帯」と呼ぶようになったり、イタリア料理のことを「イタメシ」と呼んだりという日本語の変化や新語はありました。そうして、イタリアに暮らし始めてから、日本の友人を通じて「イケメン」という言葉を知り、ブログを通して「アラフォー・アラフィフ」という言葉を知りました。
携帯するのは何も電話に限らないではないかと、言葉を耳にし始めた頃にとまどい、今も、文章中で何度も「携帯電話」と繰り返すのがうるさく感じるときのみ、まれに「携帯」とブログに書くことはあっても、話し言葉では使わないようにしています。ら抜き言葉は、「こういう用法が広まっている」という状況を、日本語の授業中に話し、嘆かわしいという思いが口調から伝わるのか、「なおこは純粋主義者だね」と言われたこともあります。「携帯」という言葉の新用法や、「イケメン」などという新語は、ら抜き言葉と違って間違いではないのであって、そういう意味では、単に変化にとまどって、古い日本語の世界から抜け出せないでいると言えるかもしれません。
アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』には、確か辞書の定義として、「言語の正常な発達を阻害する」という説明があり、「ただし、この辞典はきわめて有用である」と説明がしめくくられていたように覚えています。イタリアでは、現代イタリアにおける識字率の低下が問題になっていますが、イタリアに限らず、日本でも、辞書を引きつつ、頭で考えて、手で文字を連ねていた頃に比べて、パソコンや携帯電話が表示する候補の中からこれと思う漢字を選べばいいという時代になって、読書離れとの相乗効果で、ますます漢字や日本語の力が下がってきているのではないかと、心配しています。インターネットでだれもが発信できる時代だからと言って、頭でしっかり構成を考え、誤字脱字がないか、文章の整合はどうかと校正をすることもなく、話すように文字を連ねて、オンラインで発信する人が増えれば、インターネット上の文章の質もまた下がり、そうして、そういう文章や、テレビや漫画で使われる断片的な会話を、主な言語情報として育っては、話し言葉と書き言葉、親しい友人間と公の場での言葉の使い分けができない人も増えてくるのではないか、と。現代の大人の多くは、すでに読書や社会でそういう使い分けを学んだ上で、あえてブログやSNSで、話し言葉の色彩の強い書き言葉での投稿をしている場合が多いと思うのですが、幼い頃からパソコンや携帯電話と共に育っていく世代は、そうした違いを感じること、学ぶこと、使い分けることができるのかどうか。
言語というものは世につれて変わりゆくものであり、その運用や変化にはすべての人が参加するのだ、そういうものだと思いつつ、そういう危惧が、時折頭をかすめるのです。大切なのは、本を読むこと、きちんと構成された論理的な文章に触れること、そうして、論理的な思考力、自分の頭で考えて判断する力を、これからの若者が持ち続けることであり、それさえできれば、多少の言葉の乱れや移り変わりは、いつの世にもあるものなのだろうかとは、思いつつも。
懐かしいので、動画を拝見したかったのですが、日本では著作権の問題があり開けないようです、残念!
私も、ロボコン、同じもの連想いたしました!
ロボットコンテスト、あるのは、知り合いの子供さんが新居浜高専へ通ってらっしゃたので知ってましたが・・・
新語、私もブログでいろいろな新語を使ってるものの一人です!
何年か前までは、私も本(小説ですが)読むのが大好きでしたが、今ではインタ―ネットやブログの時間が多くて、いけない傾向だと反省するものの、生活習慣とは恐ろしいなあ~とつくづく思うのであります。
そのせいもあり、新語をよく使うようになってるのかもしれないです。新語は、省略してる語が多くてこうして書くのが楽なので余計使ってしまいます。
勝手なもので、でも、美しい日本語は大切に残っていって欲しいなあと思うのであります。
新語はきっと、わたしも日本に暮らしていて、日々見たり聞いたりしたら、そのうち自然に口をついて出て、当たり前のようになるはずのものが、遠く離れて住んでいるために、たまにしか出くわさないため、いつまでも違和感が残るのではないかと思います。平安時代から現代語までの日本語の変遷も、これまでの文法や用法を守ろうという風潮と、庶民も加わっての新しい言葉や文法的用法の利用との均衡関係が徐々に新しい文法へ、新しい用法へと変わった結果あるのですし。