2017年 02月 08日
願いの実現とレストランの注文、ディーパクイタリア語版瞑想講座1日目
メモはせずに集中してとのことなので、メモをせずに聴いた上、聴き終えてからすぐ夫がすでに見ていたサンレモ音楽祭を見に行ったためか、ディーパク自身の言葉よりも、その後にプージャ・クリスティーナがしていた解説の方が心に残ってしまっているきらいがあるのですが、忘れぬうちに思ったことを書き残しておきたいと思います。
desiderioは英語のdesireにあたる言葉で、「願い、望み、欲求、欲望」という意味です。
"La mia vita va avanti grazie al desiderio."
は、「わたしの人生は望みのおかげで前進する」と訳せば詩的である一方、「わたしの命が生き続けられるのは欲求のおかげである」と訳すと、哲学的・生物的真理になるわけですが、イタリア語ではそのどちらをも包括する表現です。
記憶を頼りに書いているのですが、今こうしている間にも体中の細胞(cellula f. 、pl. cellule)が生きようと望むおかげで、わたしたちが生きていられるのだともディーパクは言っていました。ただ、ディーパクとプージャによるレストランでの注文を例に挙げての説明では、desiderioはもっと心・精神の奥深くの願い、望みを語っていたような気がします。
レストランに行って注文をすれば、頼んだおいしい料理が、テーブルに運ばれてきて、その料理を食べて、空腹が満たされ、願いが実現する。
ディーパクが言っていたのは、確か望みとその実現の関係で、それにはいろいろ種類があり、レストランでの注文のように、口にすれば願いがすぐに実現するものもあれば、たとえば、だれか親しい人のことを考えていたら、その人から電話があるといったような、もう少し間接的な、けれどもより魂の深いレベルでの実現もありうるのだということだったように思います。すみません。講座を聴き終えてすぐではなく、サンレモ音楽祭を見たあとでの執筆で、聴きながらメモを取らなかったために、記憶がややあいまいです。
一方、プージャ・クリスティーナが言っていたのは、わたしたちの望みは、知っているようで、実は自分でもはっきりと知らない、分かっていないことが多いということでした。「何かおいしいものがほしい」と望んでチョコレートなど、おいしいものを食べても満たされないのは、それは、そういうふうに操作されているところもあると言った上で、プージャは、おいしいものが食べたいと感じる心の奥で、本当にほしいものは、実は他のものではないかと問いかけます。言われると確かに、最近つい甘いものに手が伸びるのは、疲れていたり、ストレスがたまっていたりして、元気をつけよう、口に甘いものがほしいと思うからのような気がします。ちなみに、この「本当にほしいものは何か」については、以前に英語の瞑想講座ですでに受講した内容にあり、その問題を取り上げたディーパクの著書はすでに購入しているのですが、まだ読んでいません。

閑話休題。プージャは言います。「レストランで給仕が席まで来たら、すぐに何を頼みたいかを言わなければいけないけれど、もし神なり天なりが、あなたの前に現れて、何があなたが実現したい望みかと尋ねたら、すぐに答えられますか?」と。先のチョコレートの例ではありませんが、漠然と日頃から願っていることは、たとえば他の願いをすりかえたものかもしれないし、もっと突きつめて具体的なものとしないといけないということではないかしらと思います。
確かにだれか万能の力を持つ存在が目の前に現れて、わたしの望みをかなえてくれるとしても、その望みがはっきりとした確かなものではなく、自分でも漠然として伝えられないようであれば、天にもかなえようがないでしょう。「レストランで給仕の前で、ああでもないこうでもないとしどろもどろ…」とプージャがたとえて言うように、日々人生を生きながら、人生レストランで自分がほしいメニューが何かを、自分さえよく知らずにいれば、人生の方も与えてくれようがないし、自分自身でもその方向に向かって進んでいけません。
第1日目は3週間にわたる講座の導入となるため、今日はディーパクの言葉はやや象徴的であり、一方、プージャの言葉はそれを補うかのように例が具体的だったのではないかと感じています。プージャによると、第1週目は「自分が望んでいること」を突きつめること、そうして、講座全体では、自分自身を知ること、認識することを目標としているということで、この講座を受講することで、あらためて自分の人生や毎日を見つめ直すきっかけがもらえるのではないかと思っています。
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