イタリア写真草子 ウンブリア在住、日本語教師のイタリア暮らし・旅・語学だより。

読み直し書き直しても気になる頃

 日本の高校で教えていた頃は、国語の教員だからということで、学校が発行する各種新聞や雑誌、研究紀要などの編集を担当することがよくありました。たいていの場合、複数の教員で、生徒や同僚の書いた原稿に目を通して、誤字や脱字、そして、主語と述語がきちんと対応していない、あるいは、言葉の使い方が不適当であるなど、問題のある箇所に、赤ペンで訂正を加えていったのですが、そういうときに、「わたしなら、こうは書き直さないけれど」と思う訂正を、先輩の先生方が入れられているときが、ありました。また、ペルージャ外国人大学でわたし自身が書いた卒業論文を、担当してくださった二人の先生に見ていただいたときにも、一人はよしとされているけれども、別の先生は書き直されている、そういう箇所が多々ありました。

 当たり前と言えば、当たり前のことですが、明らかな誤字や文法的な間違いなどについては、だれが見ても、ほぼ同じような修正が入るのですが、文の書き方や言葉の使い方には、それぞれの好みや流儀というものがあるので、人によって、直す箇所、あるいは訂正の仕方が、変わってくるわけです。

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Colori d'autunno 11/11/2018

 他の人が書いた文章よりも、自分が書いた文章の方が、間違いや問題を見つけるのが難しいのは、書かれた内容や表現をすでに知っているために、一語一句注意して見直そうとしても、どうしても見過ごしが生じてしまうからです。高校で教えた頃、間違いのないように注意して作り上げた国語の問題を、試験問題検討会で他の先生方とつき合わせてみると、互いに何らかの間違いが必ず見つかることの方が多かったように思います。

 注意力が落ちる上に、感情的になりやすいので、夜に文章を書くのは避けた方がいいと知りつつ、ブログの記事を、夜寝る前に仕上げることの多いわたしは、投稿した直後に一、二度記事の文に目を通して、間違いがあれば訂正するほか、翌日、できるだけ朝早いうちに再度目を通して、直すべき箇所があれば修正しているのですが、翌日になって時間を置いてからの方が、新たな気持ちで記事を読み、文に問題がある箇所に気づきやすいような気がします。

 さて、人が書いた文章に手を加えるときは、その人自身の書き方の個性や意図を尊重するわけなのですが、今日はそれで、少なからずとまどいました。この春、このブログの文章を見直し、リンクを貼り直そうと考えていたものの、5月から約半年もその作業を放置していたのですが、つい最近になって、時間が取れるときを見つけて、再開しました。そうして、8年前のわたし自身のブログ記事を読むと、違和感を感じる箇所がいくつかあります。

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 こちらも、気になって書き直した記事の一つです。(記事へのリンクはこちら

 記事を書いた当時は、おそらく読者に語りかけるように書こうとして、あるいは詩的な響きをねらって、あるいは写真に説明書きを加えるような形を好んで、こんなふうに「待ち合わせ」、「霧」、「木の葉たち」と、体言止めを多用していたのでしょう。

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 上の記事の続きを見ると、この部分では、文がすべて体言止めになっています。

 山を歩いている途中に、自分が目を留めて感動したものに、読者にも順に目をやってもらって、感動を共有してもらいたい、あるいは、述語を省略することで、本当に伝えたい言葉だけを記し、文章にリズムを持たせたい、そういう思いがあったからかもしれません。

 おそらく、この文を書いたときのわたしは、何らかの意図があって、意識的にこういう書き方をしていたのだと思うのですが、最近、体言止めの多い文章を目にする機会が時々あって、その文が特に理由もなく、突然に体言止めで終わってしまい、歩いている途中でいきなりがくりとひざが地面に着くような違和感を覚えていたわたしは、この記事に限らず、当時の記事に時々見られるこういう体言止めが気になって仕方ありませんでした。

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 そこで、今日この記事を読み直したときには、こんなふうに文を書き直しました。

 書き直したあとで、訂正する前の文と比べてみて、前に書いた文の方が、臨場感や詩的な響きがあるのではないかと、特にこの記事については思いました。ただ、他の記事に関して言えば、特に必要もないのに、長い普通の文が続く中に、急に体言止めが入っている場合があり、そういう文を、述語を加えて書き直したことについては、悔いがありません。

 ラヴェルナの森の紅葉に感動して記事を書いた、あのときのわたしが選んだ文体なのだから、そのまま残しておくべきで、今、体言止めが気になっているために、目につく体言止めをすべて訂正したくなる、そういう動機に基づくわたしの修正は、適切ではなかったのではないか。

 直すべきか直さざるべきか、それが問題だと、今妙に気になっているので、それを忘れてしまわないために、次回からは手を入れる前に、もっと考えるために、ここに、こういう心の迷いがあったことを書き記しておきます。

 冒頭の写真は、今年11月11日に、友人たちと栗林から山小屋に向かっていたときに出会った紅葉です。カプレーセからキウーシにあるラヴェルナ修道院へと向かう山道で出会ったため、場所がどちらの村だったか、残念ながら分からずにいます。苔の緑に、葉の赤い色がいっそう際立ってきれいでした。

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Colori d'autunno
trovati nel sentiero
da Caprese Michelangelo al Santuario della Verna 11/11/2018
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Articolo scritto da Naoko Ishii

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Commented by cocue-cocue at 2018-11-24 09:43
なおこさんの逡巡、よくわかります。仕事柄私も他の人の文章に手を入れる機会があり、どこまで直すか、正解はない、と常々感じています。
人によってこだわりのあるポイントも異なり、直しを戻してくる人もいれば、異議なしという方もいて、まちまちです。
私自身は直された文章に対し、明らかに事実誤認や誤読のおそれさえなければ指摘をしないタイプなので、そうでない(元の文章に戻す)タイプの人の気持ちを根本的には理解していないようにも感じます。

それはさておき。
過去の自分の文章を見ると、年月が経っているほど「今ならこうは書かないのに」と思う箇所が目につくような気がします。書いた当時はなんらかの理由があってその表現を選んだのか、自分の「若さ」ゆえの判断の甘さ(に後日見える)がにじみ出ているのか、見極めは難しいですよね。
外国語環境にいらっしゃるなおこさんだからこそ、言葉遣いをより真剣に考えていらっしゃる様子が目に浮かびました。
Commented by milletti_naoko at 2018-11-27 18:17
cocue-cocueさん、コメントをありがとうございます。
学校での編集は、日程の都合もあるので、書き手に戻さずに
そのまま印刷に出していたので、直しに対する書いた方の反応
がいろいろだと知って興味深いです。

そうなんですよね。書いた当時の自分の文体やその表現を選んだ
理由というのがあるはずで、できるだけそれを尊重するべきかと
思いつつ、最近はちょうど、むやみな体言止めの使用が気になって
いるので、つい、すべてではないのですが、書き直してしまいました。
by milletti_naoko | 2018-11-23 23:59 | Altro | Comments(2)