2009年 06月 05日
イタリア語学習メルマガ 第10号 「詩を読む〜生きる、モンターレの詩とマザー・テレサの言葉」
私の好きな日本の作家に、太宰治や芥川龍之介がいます。二人とも、あまりにも明晰な頭脳と繊細な感受性を持っていたために、世の中や自分の矛盾や醜いところ、そして苦悩を並みの人の何倍にも感じており、そのために数多くの傑作を執筆し得た一方、自殺という悲劇的な最期を遂げることになったのではないかと思います。イタリアの近現代の詩人、レオパルディ(Leopardi)やモンターレ(Montale)の詩を読んでいると、私感ですが、そういう意味で、太宰や芥川の作品に近いものを感じます。
今回はエウジェーニオ・モンターレ(Eugenio Montale、1896-1981)の詩を一つご紹介します。詩と注釈は次の本から引用しました。
Montale E., Ossi di seppia (a cura di Cataldi P. e D’Amely F.), Mondadori, Milano, 2004.
“Spesso il male di vivere ho incontrato:
era il rivo strozzato che gorgoglia,
era l’incartocciarsi della foglia
riarsa, era il cavallo stramazzato.
Bene non seppi, fuori del prodigio
che schiude la divina Indifferenza:
era la statua nella sonnolenza
del meriggio, e la nuvola, e il falco alto levato. ”
詩全文の朗読を、次の映像で聴くことが可能です。
イタリア国内では、Rai.itのこちらのページで、作者であるモンターレ自身が、この詩を朗読する音声を聴くことができます。ぜひ聴いてみてください。
‘male’という単語は、ここでは「苦痛」や「病気」という意味の名詞として使われています。日常生活でもよく使う言葉で、たとえば頭痛はmal di testa、車に酔うのはmal di autoと言い、頭が痛いときには、“Ho mal di testa. ”あるいは“Mi fa male la testa. ”(このmaleは副詞です)と言います。ここではil male di vivereですから、「生きる懊悩、生きる苦しみ」。1行目を訳してみますと、
「しばしば(私は)生きる苦しみを目の当たりにした」
とでもなるでしょうか。最初の4行では、その具体例が三つ挙げてあります。苦しみを具現する名詞三つに下線を引いてみてください。
答えは、il rivo(小川、水流)、la foglia(木の葉)、そしてil cavallo(馬)の三つです。2行目から4行目までを訳してみましょう。
「(それは)せき止められて辛うじて流れている小川であり、
乾いて紙くずのように丸まった枯れ葉であり、
地面に倒れ込んだ馬であった。」
前半の4行では、era(~であった、動詞essereの直説法半過去、三人称単数)の3度の反復が、心臓の鼓動のようなリズムを詩に与えています。詩の表現が、雅語や詩的な表現が多くて難しいために、上記の本の注釈では、次のように分かりやすい言葉を使って言い換えてあります。
'il ruscello impedito nel suo scorrere, la foglia secca, il cavallo caduto'
「流れを妨げられた小川、乾いた木の葉、倒れた馬」
先の三つの名詞のうち、最初のrivoだけがruscelloと言い換えられているのは、rivoが日常生活ではあまり使われない雅語だからです。
「生きる苦しみ」どころか、どれも生死の境にあるものばかりです。小川から枯葉・馬へと、行が進むに従って、生き続けるのがますます難しい、死に近い状況へと悪化していきます。小川(無生物)・木の葉(植物)・馬(動物)のあと、もし四つ目に何か来るとしたら、それは何で、どんな状態にあるのでしょうか。
詩に並べられた言葉の論理に従うと、書かれてはいませんが、次に来るのはuomo morto e sepolto「死んで、埋葬された人間」ということになります。
ちなみに「人間の悲劇的な状況」については、小川(rivo)の描写の段階から暗示されています。il rivo strozzato che gorgoglia-strozzatoは、動詞strozzareの過去分詞ですが、この動詞は「のどを絞めて殺す」という意味で、ここでは隠喩(metafora)として使われています。また、gorgogliareは「液体が狭い通り道を音を立てて流れる」という意味です。小川の描写は、ダンテの『神曲』、地獄篇第7章の“Quest’inno si gorgoglian ne la strozza, ...”という表現を踏まえています。innoは「賛歌」という意味で、たとえばinno nazionaleは「国歌」で、教会で歌われる賛美歌もinnoと言いますが、ここでは、地獄の煮えたぎる泥沼の中で過ごさなければいけない人々が、地上で生きていた頃のすばらしさを思い返して嘆く言葉を指しています。泥沼の中にいるため、この嘆きの言葉は水や泥に妨げられ、のどの奥でかろうじて発するものの、なかなか言葉として聞き取れるものとならないわけです。
では、後半の4行を見てみましょう。
“Bene non seppi, fuori del prodigio
che schiude la divina Indifferenza:
era la statua nella sonnolenza
del meriggio, e la nuvola, e il falco alto levato. ”
‘bene’という単語も、基本的な日常会話では副詞として使われることが多いのですが、ここでは名詞として使われています。ちなみに、副詞の用法の主なものとしてはCome stai?/ Come sta?と調子を聞かれたときに答える、Sto bene.「元気です」、人に調子を聞く際のTutto bene?「すべて順調に行ってる?」、それからVa bene.「OK、 大丈夫」などがあります。名詞としては、il bene「善、善行、良いこと、幸福」は、先のil male「悪、悪事、不幸、苦しみ」の対義語になります。seppiは動詞sapere「知っている」の遠過去です。それが否定されていて、fuori del prodigioで形容されていますから、
「幸せなものなど、幸福を探すことに無関心であることによって
もたらされる奇跡を除いては、見聞きしたためしがない」
とでも訳せるでしょうか。
prodigioは「奇跡」という意味ですが、これも格調の高い言葉で、ふつうはmiracoloという言葉を使います。schiudereはchiudere「閉じる」に反意語を作る接頭辞のs-がついたもので、「ゆっくりと少しだけ開く」という意味です。
la divina Indifferenzaの解釈には二通りあるのですが、ここではdivina、「神の、神々しい」のという意味の形容詞を「幸福を探すという人間的な在り方を超越した」という意味で捉えておきます。詩人によると、「幸福は、それを探し求める人には見つけられず、幸福を探そうと躍起にならないものだけが享受できる可能性がある」というわけです。
後半部でも前半部と対照的に、beneの例として名詞が三つ並べられています。その三つに下線を引いてみてください。
la statua(像、彫像)、 la nuvola(雲)、il falco(ハヤブサ)の三つです。お分かりになりましたか。
「(それは)正午近くの眠気に襲われた
彫像であり、雲であり、天空高く飛ぶハヤブサであった。」
幸福の例とは言え、彫像には命がなく、雲は空から地上を眺めることしかできない上に、できては消えていくはかないものであり、ハヤブサも地上から隔絶し、ただ高みから人生を見るだけです。「幸福は、人間らしく人生と取っ組み合って生きていこうという人間には縁のない、手の届かないものだ。」というわけです。
結局、Montaleに言わせると「人生は苦しみ」でしかなく、「生死の境を必死にあがいて、生き抜く」ものなのです。そして、このことは、il maleが肯定的に表現されているのに対して、beneが否定表現を通してしか叙述されていないことからも強調されています。
最後に、韻律についてですが、7行目までは伝統的なendecasillabo(11音節の詩行)を用いておいて、最後の8行目だけ11音節におさまりきらずに、alto levatoが詩の枠から飛び出した格好になっています。この字余りというか音節余りが、詩のリズムの最終部分を不穏なものにし、この言葉で形容された、天空高く飛ぶハヤブサも、実は上空から獲物を探そうと躍起になるあまり、馬と同じように疲れ果てて倒れる運命にあるかもしれないと予感させます。そして、人生から超越して高みから人生を眺めようとする人もまた……
漢詩と同じように、イタリア語の詩でも脚韻を踏む場合が多いのですが、この詩では、どの言葉が韻を踏んでいるかお分かりですか。ちなみにイタリア語の詩で韻(rima)を踏むためには、アクセントのある母音以降がすべて同じでなければいけません。
そうです。1行目末のincontratoと4行目末のstramazzato、それから2・3行目末のgorgogliaとfoglia、6・7行目末のIndifferenzaとsonnolenzaです。完全な韻ではありませんが、5行目末のprodigioと8行目の2語目のmeriggioも韻に近いものと言えます。
この文章を書くのに用いた参考文献は、以下の通りです。
- Montale E., Ossi di seppia (a cura di Cataldi P. e D’Amely F.), Mondadori, Milano, 2004.
- Alighieri D., Commedia. Inferno (a cura di Pasquini E. e Quaglio A.), Garzanti, Milano, 1982.
- シエナ外国人大学で、カタルディ教授の授業中に私がとったメモ.
2. マザー・テレサの言葉、「Vivi la vita」
太宰や芥川に、「人生や自分のいいところに目を向けて、感謝して生きていくこと」ができていたら、すばらしい作品は生まれなかったかもしれませんが、もっと平穏な人生が送れただろうに、と思います。
人生の見方を、モンターレとは180度別の角度からとらえた、マザー・テレサの言葉を読んでみましょう。単語も表現も分かりやすいものが多いので、まずはイタリア語だけ見て、意味を考えてみてください。
“Vivi la Vita Madre Teresa di Calcutta”
La vita è un'opportunita, coglila.
La vita è bellezza, ammirala.
La vita è beatitudine, assaporala.
La vita è un sogno, fanne una realtà.
La vita è una sfida, affrontala.
La vita è un dovere, compilo.
La vita è un gioco, giocalo.
La vita è preziosa, abbine cura.
La vita è una ricchezza, conservala.
La vita è amore, godine.
La vita è un mistero, scoprilo.
La vita è promessa, adempila.
La vita è tristezza, superala.
La vita è un inno, cantalo.
La vita è una lotta, accettala.
La vita è un'avventura, rischiala.
La vita è felicità, meritala.
La vita è la vita, difendila. ”
次の映像で、この詩の全文の朗読を聴くことができます。今度は、文字で目を追いながら、聴いてみましょう。
題、「Vivi la vita」は「人生を生きなさい」と言う意味です。詩の本文では、“La vita è ...”「人生は…です」と、人生を他の1語で定義し、だから人生をどう過ごすべきなのかを、コンマの後で命令形(imperativo)で指示しています。訳してみますと、
「人生は機会です、その機会を生かしなさい。
人生は美しいものです、その美しさを賞賛しなさい。
人生は幸福に満ちたものです、幸福を十分に味わいなさい。
人生は夢です、夢を現実になさい。
人生は挑戦です、挑戦を受けて立ちなさい。
人生は義務です、義務をまっとうしなさい。
人生は勝負です、勝負に挑みなさい。
人生は貴重です、大切にしなさい。
人生は宝です、しっかり保管しなさい。
人生は愛です、十分に享受なさい。
人生は謎です、謎を解き明かしなさい。
人生は約束です、約束を果たしなさい。
人生は悲しみです、悲しみを乗り越えなさい。
人生は賛歌です、歌いなさい。
人生は闘いです、受け入れなさい。
人生は冒険です、危険を恐れず挑戦しなさい。
人生は幸福です、幸福に値する人でありなさい。
人生は人生です、人生を守りなさい。」
どの行もコンマのあとにtuに対する命令形があり、その命令形の直後に代名詞が直接くっついた形になっています。イタリア語の代名小詞は、特に強調する場合を除いては通常動詞の前に置かれますが(たとえばTi voglio bene「好きです。愛しています。」の tiのように)、代名小詞が動詞に後置されてしかも直接くっつく例外があります。それは動詞が2人称の命令形やジェルンディオ、不定詞などのときです。
La vita è un'opportunita, coglila.
たとえば、1行目のcoglilaは、動詞cogliere(つかむ、とらえる)の命令形cogliの後に、女性名詞であるun'opportunita(機会)を言い換えた代名詞laがくっついたものです。
La vita è un dovere, compilo.
一方、ここで代名詞loが使われているのは、直前にあるun dovere(義務)という男性名詞を指しているからです。
La vita è preziosa, abbine cura.
ここで、後半のabbine curaのabbiはtuで呼ぶ相手に対する動詞essereの命令形です。curaは「世話、心遣い」の意味で、“Abbi cura! ”は、別れに際して「体に気をつけて」と言いたいときに使える表現です。abbine curaのneはdella vitaを指しているので、代名詞を使わずに言えば、abbi cura della vitaとなります。
このマザー・テレサの言葉を書いた紙は、教会の壁に貼ってあったり、修道院のおみやげやさんで売っていたりするので、見かける機会が多いのですが、実際にマザー・テレサがいつどういう機会に何語で口にしたのかはまだ確認できていません。どなたかご存じの方がいれば教えていただけると幸いです。和訳は、私がイタリア語から翻訳したものです。
せっかく与えられた人生という恵みに感謝し、1度しかないこの機会を十分に生かしていきたいものです。
イタリアに来てから、イタリア人に「日本って社会の締めつけが厳しいから、自殺が多いんでしょう」と言われることが時々あって、そのたびに、欧米のマスメディアが日本の奇抜なところばかり報道する傾向があるためかと考えていたので、「日本で昨年の自殺者が3万人を超えていた」という記事を読んで、驚きました。わたしがイタリア人への返事として「たとえば企業の社長や責任者が、経営が成り立たずに破綻してしまった場合に責任を感じ、絶望したりして死を選ぶことはあるけれども」と言うと、「イタリアでは、社長はそんなことの責任なんてまったく感じずに、平気でいるよ」と答える人が多いのですが、仕事だけが人生ではないはずです。仕事が失敗したからと言って、人生が終わったわけではなく、死を選んで謝罪するよりも、むしろ生きてできるだけの解決策を探る方が、苦しいでしょうが、よっぽど責任感があると思います。この何年かイタリアに暮らしているため、個々の自殺の理由は推察しかできませんが、失恋しても、受験に失敗しても、あるいは仕事を失っても、だからと言って人生を失敗したというわけではなく、そういうつまずきは、あとでよりよい人生を送るための、あるいは生き方を模索するためのヒントになるのだと思います。日本人は、国民的に性格がきまじめで、何かに打ち込んで懸命になるのはいいのですが、それがうまくいかなかったときに、「何もかもだめだ。終わりだ。」と思ってしまうのでしょうか。あるいは、親から「転ばぬように」「けがせぬように」と大切にされて、痛みや挫折を知らずに育ってきたために、つらい出来事に出会ったときに、それを乗り越えていけるだけの勇気がないのでしょうか。
わたしたちは世界の中に、一人ひとりが、かけがいのない尊い存在として生まれてきています。人をいじめて苦しめたりするのは論外ですが、自分自身を一人ひとりがもっと大切にできたらと思います。死んでしまう前に、できることがもっとたくさんあるはずです。命をかけてまで貫かければならないような責任など、戦時中でもない日本に生きていれば、ないと思います。むしろ、どんなにつらくても生きて償っていくこと、また、つらくてどうしようもない時にも、それに耐えて乗り越えていく勇気と、その勇気を持てるための希望が大切だと思います。皆さんも、もし周囲に問題を抱えた人がいたら、一声かけて、励ましてあげてください。イタリア語のことわざでも、La speranza è l'ultima a morireと言います。「希望が死ぬのは最後」、生きている限り、問題が解決し、情況が好転するという希望があります。大切な人生を投げ出したりしないでください。
それでは、また。
⇒ マザー・テレサの詩、「Il meglio di te(最良の自分)」をブログでご紹介しています。お読みになりたい方は、こちらからどうぞ。
・マザー・テレサの励ましと戒め
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*2019年3月追記: ヤフージオシティーズのサービス終了のため、現在、このブログにバックナンバーを少しずつ移動中です。
記事の移転を機に、記事に添える枯れ葉やささやかな美しいものの写真を探しました。
添えた写真はすべて、トスカーナ州アレッツォ県にあり、アッシジの聖フランチェスコが聖痕を受けたと言われるラヴェルナの森と修道院を、2017年11月18日に撮影したものです。ラヴェルナ修道院についての説明はこちらの記事にあり、記事末に関連記事へのリンクも載せています。
こちらこそリンクをありがとうございます。
記事、とても興味深く拝見しました。