2009年 06月 13日
イタリア語学習メルマガ 第11号(2) 「歌『Passione』、脳のしくみを生かした外国語学習」
映画、『Saturno contro』(詳しくはこちら)は音楽も秀逸で、サウンドトラックには、英語やフランス語、スペイン語に加えてトルコ語ではないかと思われる歌も入っています。どの歌も何度聞いても飽きず、非常に効果的に使われていて、映画の各場面での登場人物の気持ち、雰囲気や情趣などを巧みに表しています。

イタリア語の歌は、ネッファ(Neffa)の『Passione』1曲で、この歌が流れるのは、映画の最後で先のモノローグが繰り返されたあとです。ただし、曲のメロディーは、先の独白のバック・ミュージックとしても使われている上に、映画の主要な場面で繰り返し流れます。この映画のために書き下ろされたためでしょう、歌詞も音楽も、映画のテーマ全体、主人公たちの運命をうまく凝縮し、心を打つものがあって、映画館で見たときは、夫と二人で歌がすべて終わるまで座席に残って、歌に聞きほれていました。
まずは、歌を聞いてみて、どれだけ聞き取れるか挑戦してみてください。歌の題は『Passione』、歌手はNeffaです。
初めの部分で何と言っているのか具体的に見てみましょう。
“Dammi passione
anche se il mondo non ci vuole bene
anche se siamo stretti da catene
e carne da crocifissione”
「ぼくに情熱を傾けてくれ、
たとえ世の中がぼくらのことを快く思っていないとしても、
たとえぼくらが鎖で縛りつけられ、
十字架に架けられる運命にある肉体であろうとも。」(「 」内は石井訳。以下同様)
passioneという単語は、この歌では表面的には「情熱、熱情」の意で使われています。ただし、この言葉の第一義は「肉体の苦痛」です。Passione di Gesù Cristoは重い十字架を背負って歩き、十字架に架けられて死を遂げたイエス・キリストの受難を意味しますが、たとえば近年のアメリカ映画にもあったように、passione一語だけでも「キリストの受難」を表します。2行目に「十字架に架けられるべき肉体」(carne da crocifissione)とありますので、ここではpassioneという語が「情熱」「キリストの受難」の両義で、掛詞のように用いられているようです。
世の中や自分たちの状況をとても否定的に、悲観的にとらえているのは、生きる苦しみを述べているのか、映画の中で訪れる別れを示唆しているのか、それとも同性愛者である主人公たちが世間やカトリック教会に糾弾される身であることを歌っているのか、イタリア人の夫にも聞いてみましたが、いろいろな解釈が可能なようです。
歌のリフレーンの部分では、何と言っているのでしょうか。
“Abbracciami e non lasciarmi qui lontano da te
Abbracciami e fammi illudere
Che importa se questo è il momento
in cui tutto comincia e finisce
giuriamo per sempre però
siamo in un soffio di vento che già se ne va”
「ぼくを抱きしめて、君から遠いところに置き去りにしないでくれ。
ぼくを抱きしめて、幻想を抱かせてくれ。
これがすべてが始まって終わってしまう瞬間だ
としても構うものか。
二人で「永遠に」と誓おう。けれど、
ぼくらはすでに去り始めたそよ吹く風のただ中にいる。」
前号でも述べましたが、2人称tu, voiに対する肯定の命令形では、代名小詞は動詞の命令形のあとに来る上に、直接動詞にくっつく形で表記します。歌の冒頭部のDammiは動詞dare(与える)のtuに対する命令形da’「くれ、与えてくれ」に代名詞のmi「ぼくに」がくっついた形で、「ぼくに…を与えてくれ」という意味です。リフレーンの部分のabbracciamiは、動詞abbracciare (抱きしめる)のtuに対する命令形 abbraccia (抱きしめてくれ)に代名詞のmi(ここでは目的語なので、「ぼくを」の意です)がくっついた形です。そして、fammi は動詞fare 「~に~させる」のtuに対する命令形fa’ 「~させてくれ」に代名詞mi「ぼくに」がくっついた形です。tuに対する命令形がmonosillabo(1音節)になる動詞の場合は、後続する代名小詞の語頭の子音(ここではm)が二重になるため、da’ + mi → dammi、fa’ + mi → fammiと、どちらもmiの語頭のmが2回繰り返されています。
下記のリンクから、歌のすべての言葉を見ることができます。参考にしてください。
- MTV Testi e canzoni - Passione (Testo) - Neffa
3. 脳のしくみを生かした外国語学習
最後になりますが、わたしが折に触れて「イタリア語を短文や単語から勉強するのは控えて、(たとえ短くても)まとまった文章、会話、映画などの教材を使うようにしてください」と言うのには、さまざまな裏づけがあります。
日本で難しい小説、たとえば中島敦の『山月記』の冒頭)を読まれたり、科学者の研究発表会などを聞かれたりするときに、どうやって相手の言うことや書かれたことを理解されようとするか、考えてみてください。知らない漢語や科学の専門用語がたくさん出てきても、それがどういう意味かにいちいちとらわれずに、話の前後の流れや知っている言葉の助けを借りて、「大体こんなことを言っているのだろう」と見当をつけようとされると思います。
人間が人の話や書いたものを理解するときは、そこにある言葉からだけ、また、その言語の能力だけを使って、理解するわけではありません。話のテーマや前後関係、会話なら話をする人の表情や身ぶり、書かれたものなら添えてある写真やグラフといったように、言葉に添えてあるものや表現の前後の内容が、大いに私たちの理解を助けてくれます。さらに、私たち一人一人がこれまで生まれ育ってきた中で身につけたいろんな知識も役に立ちます。
外国語で話をしたり、授業を受けたりするときも、それは同じで、何か一つ分からない言葉があったからといって、それで思考回路が中断してしまったり、いちいち辞書で言葉を調べたりしていたら、「もし集中してきちんと聞いていたら、だいたい分かっていたであろうこと」を聞き逃してしまい、無駄にしてしまうことになります。
「単語」、「単文」(文法の教科書の例文)をたくさん覚えるような勉強だけをしていると、話を聞いて見当をつける訓練ができないので、上記のようなよからぬ癖を身につけてしまう恐れがあります。
こんなふうに言うのには科学的な裏づけもあります。というのは、人が誰かの発言を理解するときにはまずは右脳を使って全体の流れをとらえ、それから左脳に情報を送って細かい表現や言葉を分析することが、明らかになっているからです。そのため、近年欧米では、自然な脳の働きを利用して外国語を教えること、つまり「まずは概要を理解しようと努め、それから細かい点に留意する」という聞き方、読み方を訓練するのが望ましいと言われています。
そして、外国語を話す能力のいかんを左右するのは、単に外国語の知識だけではありません。「あまり細部にこだわらないこと」、「少々分からないことがあっても気にしないこと」、「失敗や間違いを恐れずに会話に参加できること」などといった気の持ち方や態度も、学習の効率を大いに左右します。
ですから、文法や単語ばかりに気をとられて学習していると、人と話をしていても、授業を受けていても、何か一つでも分からないことがあると、うろたえるあまりに、そこで理解が中断されてしまう恐れがあります。まとまった文章や会話、映画に数多く接して、分からない言葉や表現があっても概要をとらえようとする訓練や、言葉だけではなくコンテスト(話す人の表情、身ぶりや声の抑揚)などから理解するためのヒントを得ようとする訓練が必要だというのはそういうわけです。

前回モンターレの詩を紹介した際に「あまりにも難しいので分からず、勉強する必要を感じた」といった主旨のお便りを何通かいただきましたが、難しいのを百も承知で、「文化、文学」をお知らせしたくてご紹介しました。モンターレの詩は、イタリア人でも理解に苦労するような難しい言葉や日常生活では使わないような表現を多用していますので、難しいのは当たり前。心配なさらないでください。
皆さんが自分で、勉強するのにいい教材を探されるときは、まず新聞やインターネットの記事、あるいは歌の歌詞やNHKのイタリア語講座の会話などで、自分に関心のある話題に触れているものを見つけてください。その際、一度読んだだけで、大ざっぱでもいいから大意が分かること、使われている言葉の7割近くをすでにご存じであることが、自分の勉強に役立つかどうかの目安になります。あまり難しすぎる教材は、解読に時間がかかり、挫折感だけ感じる割にあまり力をつけるのに役立ちません。現在の自分のレベルより少し難しいもの、が最適の教材と言えます。そういう教材を探し当てたら、まずは概要を理解するつもりで、辞書は引かずに2、3度読んでみてください。そのあとで、辞書を片手に細部まで理解するつもりで読み込まれるのがいいかと思います。
第8号で紹介したイタリア語の入門書についても、一番いい勉強の仕方は、まず各課の最初の会話を、テキストを見ずに何度か聞いてみて、何を言おうとしているか理解し、それからテキストの会話を見ながら音声を2,3度聞いて、内容を理解しようと努力し、最後に、訳や単語の意味などを見て、学習することです。脳のメカニズムを利用した上、「自分の知っている知識を総動員して、言われていることを理解しようとする」訓練ができるからです。テキストをお持ちの方は、ぜひ実践してみてください。さらに、一課の内容をすべて学習し終わった後で、CDの音声の真似をして何度も会話のあとについて言ってみると、少しずつイタリア語の発音やイントネーションを自分のものにしていくことができます。
さまざまなイタリア語の文章や会話に触れることができると言う点では、NHKのラジオやテレビの講座も大いに利用できると思います。ただし、NHKの講座は、生番組の受講が難しい時間帯に放送されていたり、テキストの単価が安かったりするために、よっぽど意志の強い人でないと、テキストや番組を録画・録音したカセットだけがたまっていくという結果になりやすいと思います。あくまで副教材として、触れるイタリア語の種類や量を増やすために使われる方が効果的なのではないかと思います。
それでは、また。夏のイタリアへの旅行や留学に向けて、「勉強を始めなくては」と焦り出した方もいらっしゃるかもしれません。日本では、学生さんであれば高校や大学の勉強に、働かれている方であれば仕事に、時間を取られて大変だと思いますが、毎日学習書を1ページ勉強する、1週間で第1章を終えるなど、目標をしっかり決めて、ノートに毎日自分が学習した量や時間を一目で分かるように記録し、自分自身を叱咤激励しながら頑張ってください。「独学」で難しいのは「自分が自分をコントロールしなければいけないこと」であり、それがきちんとできるためには、細かい目標を立てて、目標が達成できたかどうかを、自分で把握できるようにすることが大切です。
お互いに、目標に向かって一歩一歩頑張っていきましょう。イタリア語が少しでも話せるようになると、旅の楽しみが増えます。イタリア各地のいろんな人と言葉を交わし、イタリアという国の人々や文化をよりよく知ることができます。イタリア語が分かるようになれば、旅行で選択できるホテルの質や数も何倍、何十倍にもなります。そして、外国語や文化を学習することは、自分の母国語や母国の文化について考えるきっかけにもなり、人間性を培うことだってできるのです。旅行先のレストラン選びや食べたい一品を選ぶのがよりスムーズになるという実利的な効果があるのは、もちろんのこと。
*2019年3月追記: バックナンバーの移動(詳しくはこちら)に際して、写真を添えようと、キリスト受難(passione)の写真を探していたら、沈む夕日の前を飛ぶ2羽のカモメの写真が見つかりました。映画や歌の内容と重なる要素が多いので、このトラジメーノ湖の夕日の写真を添えることにしました。
記事が長いために、エキサイトブログでは第11号をすべて同じ記事で投稿することができないため、分割して投稿します。

