イタリア写真草子 ウンブリア在住、日本語教師のイタリア暮らし・旅・語学だより。

イタリア語学習メルマガ 第12号 「縁は異なもの ―結婚式の思い出―」

 先日6月16日は私たちの結婚記念日(anniversario di matrimonio)でした。なぜこの日に決めたかというと、一つは、うちの夫は植物を育てたり、自然について学んだりするのが好きで、たとえば野菜の種をまいたりするのにも、月(luna)の満ち欠けを意識しているからです。月の満ち欠けに留意していると、植物がよく育ち、たくさん収穫ができる、と近所の方もおっしゃっていました。luna crescente、つまり月が満月へと向かって徐々に満ちていく時期に物事を始めると、豊かな実り・将来が約束されていて、幸先がよいというので、luna crescente(月が満ちていく時期)である土曜日(sabato)に結婚しようということになりました。本当は、「5月(maggio)の花が咲き乱れる頃」が望ましかったのですが、いろいろな準備が5月には間に合わないということで、「6月(giugno)の月が満ちていく時期の土曜日」に焦点をあてることになり、それが結婚した年にはちょうど6月16日(il 16 giugno)だったのです。私の方は、大安ではないものの仏滅ではないので、了承しました。

 なぜ土曜日かというと、遠方からくる友人や親戚もいたため、週末(fine settimana)がいいけれども、日曜日(domenica)は避けたかったからです。それに、イタリアでは、数字の17(diciassette)は縁起が悪く、不吉だとされています。2世代住宅に住んでいると以前にも書きましたが、私たちの住む3階建ての大きい家には、独立したアパートに、夫の母方の伯父も二人住んでいます。その一人、夫の伯父、ドン・アンキーセは健康上の理由で2001年頃に引退しましたが、それまで長年カトリック教会の神父(prete, sacerdote)として、ウンブリア州のさまざまな教区(parrocchia)の教会で勤めてきた人です。カトリックでは、神父の結婚が認められていないけれども、やはり家事や教会関係の仕事に助けが必要な場合が多いため、神父の家族、両親あるいは兄弟姉妹が一緒に住んだりして、神父を陰で支える場合も多くあります。うちの夫の家族はその典型で、夫の母は、早くに父親を亡くしたため、また末っ子であったために、兄が神学校(seminario)を終えた後は、兄が神父として新しい教区に就任・転勤するたびに、母親(わたしの夫の祖母)と共に、新しい教区に赴き、同じ家に住んで、家事を受け持ち、教区の仕事を手助けしていました。私も愛媛県で高校教員として勤めていたころは「若いから」という理由で、郊外や田舎の高校で教えましたが、ドン・アンキーセも同じ理由で、かなり生活の不便な地域で、長年の間教区司祭(parroco)を務めました。

 ミジャーナ・ディ・モンテ・テッツィオ(Migliana di monte Tezio)というペルージャ郊外の教区をドン・アンキーセが担当していたとき、義母(suocera)は義父(suocero)と出会って、結婚しました。その後も、神父である兄を支える必要があったため、 また、義父が末っ子であったこともあり、義父母は夫の祖母と共に、教会に付属した大きな建物でドン・アンキーセと共に暮らすことになりました。そういう経緯もあるため、夫も夫の家族も非常に信仰心が厚く、義父母はよっぽどのことがなければ毎週日曜日に教会のミサ(Messa)に行っています。夫も、日曜日に遠出や友人との会合など他の用事が入るときを除いては、ミサには毎週行くため、わたしもカトリック教徒ではありませんが、たいていの場合同行しています。

 話が横にそれましたが、そういう事情があるため、私たちは「結婚式は教会で挙げる」ことに最初から決めていました。また、式を挙げる教会は、伯父が退職直前まで勤めていたペルージャ郊外にある教会にしました。夫は、両親が出会った場所であるミジャーナで生まれ、19歳まで過ごした後、ドン・アンキーセがペルージャ郊外の教会へ転勤することになったとき、家族と共に伯父に同行し、20年近くも教会(chiesa)に隣接した建物で暮らし、伯父の教区や教会での仕事もいろいろと助けていたようで、そういう意味でも、この教会は夫の家族全員に縁の深い教会です。なぜ土曜日を避けたかというと、私も夫ももうそんなに若くないし、ごく限られた友人と身内と共にひっそりと内々に式を挙げようと考えていたからです。日曜日に式を挙げると、一般の人が参加するミサと一緒に行われることになり、そうなると教会にかなりの人がそうと知らずに列席してしまうことにもなります。最終的には、(結婚式の公示(pubblicazione di matrimonio)を教会で見つけたり、花屋さんで式のための花飾りを依頼しているときに偶然来た知人などがあちこちに知らせたりしたので、結局土曜日に式を挙げても、予定していたより大勢の方が結婚式に列席してくださいました。イタリアでは、結婚しようとする男女について、氏名や生年月日などの情報と結婚式の場所・日取りを書いた紙を新郎新婦の在住の市役所(comune)に2週間掲示しなければなりません。これを結婚式の公示(pubblicazione di matrimonio)と言います。また、教会で式を挙げる場合には、教会にも同様の掲示を2週間しなければなりません。「もし、誰かこの二人の結婚にはふさわしくない事情があることを知っている人は、2週間の間に連絡しなさい。誰も何も言わなければ、この結婚には支障がないということだから、二人が結婚するのに問題はないとみなす。」というわけです。

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 前置きが長くなりましたが、そういうわけで、私たちは、6月16日にペルージャ郊外の教会で式を挙げました。ミサを執り行ってくださったのは、実はその教区の神父さんではなく、夫の家族と縁の深い、ミジャーナ出身の神父ドン・ネッロです。ドン・ネッロは神父であるだけでなく画家、芸術家であり、ペルージャの教会や病院にはドン・ネッロの手になるモザイクの壁画などの作品がたくさんあります。温かい色づかいや「異なる文化的背景を持つ人々の共生が皆の幸せにつながる」と受け取れるメッセージのこもった美しい絵が、また穏やかで人情に厚いドン・ネッロの人柄をそのまま反映しているような気がします。残念ながら昨年の春に病気で亡くなられたのですが、夫も私も、結婚式をドン・ネッロにお願いしてよかったと心から感謝しています。7年イタリアに暮らしている間に、教会での結婚式に参加する機会は何度もありましたが、(自分の結婚式だったからということもあるのでしょうが)あんなに新郎新婦に温かくありがたい祝辞はまだ他に聞いたことがないような気がします。私がカトリック教徒ではないのに、それを私の方も夫や夫の家族の側もひけ目に感じる必要がないよう、陰ながら考えた末での言葉だったのではないかとも思います。これは、特に私たちの結婚式の2週間前に夫の従妹が結婚した際に、神父の言葉が、結婚に対する祝福というよりも、最近の世間一般の結婚に対する姿勢を批判する説教というとんでもないものであったからでもあります。これには、日曜日の他の人もいるミサだったため、そして、その日読むことに決められていた聖書の章句がそういう内容のものであったからだという理由もあるのですが、新郎新婦もその家族もあとで憤慨していました。

さて、カトリック教会での結婚式では、新郎(sposo)と新婦(sposa)が、それぞれ決められた誓いの言葉を神父、公衆、そして何よりも、神(Dio)と結婚しようとする相手の前で、はっきりと口にする場面があります。まずは新郎が誓いの言葉を言い、次に私の番になりました。

"La sposa:
Io, Naoko, accolgo te, Luigi, come mio sposo.
Con la grazia di Cristo,
prometto di esserti fedele sempre,
nella gioia e nel dolore,
nella salute e nella malattia,
e di amarti e onorarti tutti i giorni della mia vita."

「新婦:
 わたし、直子はあなた、ルイージを私の花婿として迎えます。
 キリストの恩寵を受け、
 喜びの中でも苦痛の中でも、
 健康な時にも病気の時にも、
 絶えずあなたに誠実であること、
 私の人生のすべての日にわたってあなたを愛し、敬うことを誓います。」

 新郎(lo sposo)の誓いの言葉でも、名前と、come mio sposo 「私の花婿として」がcome mia sposa「私の花嫁として」に変わるだけで、あとはすべて同じ表現を用いています。

 式の中でDon Nelloがおっしゃっていました。「遠い国から、ここに新婦がやって来て、新郎と出会い、今日という日を迎えることになったのは、決して偶然ではありません。私たちには目に見えず、想像もつかないような広大なdisegno divino「神の意図、計画、摂理」があったのです。」仏教でも「袖触れ合うも他生の縁」と言いますが、日本とイタリアという距離的に大きく隔たりがある国で互いに生まれ育ち、それぞれに様々な人生経験を重ねながら、二人が出会って結婚するに至るには、さまざまな選択や偶然、きっかけが関わっているわけです。何か私たちを超える大きなものが私たちを引き合わせてくださったのだと思います。だから、生まれ育ってきた文化や環境の違いなどのために、つまらないことで衝突したりすることも時々あるけれども、結婚式のときの誓いの言葉を思い出しながら、大切に二人の関係を育んでいけたらと思います。

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 国語を教えることも、クラス担任として生徒に関わることも、多忙で精神的に辛いことが多いにも関わらず大好きだったのに、退職をしようと考えたのは、長年望んできて初めてクラス担任を持て、1年生・2年生と持ち上がれた学年を、管理職の意図で3年生まで担当することができなかったことが大きいと思います。休み時間もできるだけ教室に残ったり、生徒の意見や感想を載せたHR通信を発行したり、壁に生徒の書いた今年の抱負を貼ったりと、生徒とできるだけ接触を持てるように、少しずつ信頼を築き、一人一人の生徒を理解できるようにと努めていたのに、自分で情熱を傾け(一部、逆に傾けすぎという批判もあったようです)育て上げた生徒と共に3年生に上がることができないのが辛くて仕方がありませんでした。この時の人事には、他にも批判や苦情も多かったようです。

 次の年に受け持つことになった2年生も、「この子達の担任はわたしで、一生に1年しかない機会なのだ」と思って同じように精一杯関わったものの、自分の中に、甘いのかもしれませんが、2度と同じような喪失感を味わいたくないという気持ち、また、もともと自分自身が非常に勉強することが好きで、英語に続けてイタリア語の学習を始めていて、自分の力を海外で試してみたいという気持ちもありました。母が48歳で亡くなっているため、教員としてはもう10年以上自分なりに精一杯がんばったのだから、もし10年後に死んでも後悔しないように新しいことに挑戦してみたいということもありました。また、授業の中や小論文の指導、HRの運営などで生徒に関わるのは好きで、他の先生や生徒から教わることも多かったのですが、たとえば服装検査などで毎月前髪の長さや爪の切り具合を点検し、指導すること、そして担任をしていたクラスの生徒がタバコを吸い、夏休み中にも再び吸う可能性があるからという理由だけで、校長に「先生の将来のことを考えたら、予定していたイタリアへの旅行はキャンセルし、万一の事態に備えて日本にいるべきだろう」と言われるような、規制の厳しすぎて生徒だけではなく教員の生活も縛っている一部の愛媛県立高校の実態にも疑問を感じていました。

 何はともあれ、今になって考えてみると、あの当時の私にとっては辛くて仕方がなかった経験のおかげで、夫に出会えたわけです。また、イタリア語を勉強し始めたのも偶然のようなものです。初めてクラス担任を持ち始めた年に、7月に入っても毎晩遅くまで職員室に残って仕事をしていたのですが、ある日夜遅くなって、職員室に大変お世話になった先輩と二人だけ居残って仕事をしていた時に、その先輩に「もう夏休みも近いわね。」と言われたことがきっかけでした。それまで目の前の仕事に追われて、目先の休みの計画もまったく立てていなかったのですが、「こんなに今学期は頑張ったんだから自分にごほうびをあげよう」と、外国旅行を思い立ちました。この年に入る年末年始に『風と共に去りぬ』及びその続編を英語で読み、アイルランドの文化や人々の気性にひどく魅かれたので(続編の日本語版は、原作とはかなり異なる内容になっています)アイルランドを訪ねようと思いましたが、7月も10日になって、いまさら一緒に行ける友人を探すのも、個人旅行で宿を頼むのも大変そうだったので、ダブリンの英語学校に留学してホームステイをし、そこで出会った友人や学校のツアーであちこちを見て回れたらと思い立ちました。それで2週間留学した先のダブリンの学校で、クラスの生徒の半分以上が、そして学校の生徒の半分以上がイタリア人であったことが、私がイタリアに興味を持ち始めたきっかけです。それまでは、イタリアにはまったく興味がなかったので、まったく「人生万事塞翁が馬」です。

 夫と出会ったのには実は仕掛け人がいて、アパートの同居人でウンブリア州の州庁に勤めていたイタリア人女性が(これはあとから彼女に聞いた話ですが)「ルイージは東洋が好きだから(夫は、インドや中国などアジア各国を旅行で回ったり、指圧や柔道を習ったりしたことがあり、今はヨガに励み、小さい日本式の庭を作り上げたいと考えています)」と考え、私には「ルイージは自然を愛していて、本当にいい人だ」と言い、夫には「直子は料理がとても上手だ」と言って、二人を接近させようと図ったようです。この彼女と同居するようになったのも、やはりひょんなことがきっかけです。その前に住んでいたアパートに新しくクウェートの学生が入居したのですが、その学生が大勢友人を呼んで深夜までディスコパーティーかと思われるほど、大音響で音楽を聞いたり、廊下や台所などの共同の空間で平気で煙草を吸ったりと身勝手な態度を取る上に、こちらの苦情をまったく受け入れなかったため、大学にも近く、日本人の仲間もいて居心地もいいアパートだったのですが、そこを引き払わなければならなくなったからです。また、夫と出会うきっかけになった新しいアパートには、もともと親しい友人だったスペイン人女性(この彼女とも偶然に知り合いました)が短期間の語学留学で住んでいて、彼女とのつき合いを通じて、他の同居人もよく知っていたため、彼女が帰国した後に、その一人用の部屋(camera singola:どのアパートでも、たいてい机やベッドが1台、タンスなどがそろっています)に私が住むことになりました。

 ずいぶん話がそれましたが、人生、何が起こるか分かりません。とんでもなくつらい経験が、実は将来ゆくゆくは自分に幸せを運んでくれる可能性もあります。つらいときは思いきり悲しむことも大切ですが、いつも希望を忘れずにいることが必要です。そして、かけがえのないいろいろな出会いを大切にしましょう。

 外国語を勉強するのも、貴重な出会いを増やしていくいいきっかけです。

*2019年3月追記: 現在、イタリア語学習メルマガ、「もっと知りたい! イタリアの言葉と文化」のバックナンバーを、このブログに移動中です。詳しくは第119号の二つ目の記事をご覧ください。

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Articolo scritto da Naoko Ishii

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by milletti_naoko | 2009-06-26 12:00 | Lingua Italiana | Comments(0)