2019年 08月 13日
カトリア山と ああ いてよかった
放牧のために木々があまり育たず、頂上付近は草ばかりのカトリア山は、太陽が照りつけていたためもあり、標高が高くとも、予想していたよりは暑かったのですが、すばらしい眺めを楽しむことができました。
比較的短時間で登頂できることも、カトリア山を選んだ理由だったのですが、わたしにとっては、最たる目的は、先日登頂したばかりのクッコ山(Monte Cucco、1566m)を、その北方にそびえるカトリア山から見ることでした。カトリア山頂には、数年前に一度登ったことがあるのですが、そのときにクッコ山が見えたという記憶もなければ、写真もないようだったからです。
目指すクッコ山がようやく見えたときは、ですからとてもうれしかったです。この写真で左手に見える山のうち、最も高いのがクッコ山です。見る方角によって山の形が違って見えるのがおもしろいなと思いました。また、この数日、日に日に湿度が高くなっているためでしょう、遠くの方はもやがかかってしまって見えづらく、写真でも分かりづらいのですが、スバージオ山とテッツィオ山も、輪郭を認めることができました。
出発地点付近で、登山道を防ぐように、牛さんたちが山の斜面に陣取っていたのですが、題名の「ああいてよかった」は、牛さんたちのことではありません。
昨晩のブログ記事に、翌朝日本語の授業があると書きました。今朝生徒さん宅に行って、マンションの入り口で呼び鈴を鳴らし、生徒さんと話をして、ところが、実は授業は今日、8月13日ではなく、明日14日にすることになっていたことが分かりました。授業が14日だということは、わたしもしっかり記憶していたのですが、どういうわけかそれが今日だと、先週から思い込んでいたのです。先週の週末はいとこのうちに行って、今週月曜は夫が休みを取って山に登ることになっていたため、14日の授業の準備は、いとこのうちに行く前に終えてしまおうと早めに取りかかり、けれども、あれこれ考え悩み、変更を加えるうちに時間がかかって、結局準備を終えて、プリントを印刷し終えたのは、月曜に山に出かける前、朝10時頃のことでした。授業が14日だとは覚えていたのに、どういうわけか、山に行く月曜の翌日にすぐ日本語の授業があると、ずっと思い込んでいたのです。
授業が明日であると分かっていれば、授業の準備の仕上げや掃除・洗濯を、今日ゆっくりすることができたのではありますが、すでにとっくに準備を終えて、授業をするつもりになっていたので、幸い、今朝も生徒さんがいて、さらに他に急ぐ用事がなく、予定が空いていて、授業をすることができて、本当に助かりました。昔むかし、「開いててよかった」というテレビコマーシャルがありましたが、今日はつくづく、「ああ、いてよかった」、「空いててよかった」と思いました。2時間の授業は、生徒さんもわたしもお互いに満足できるものになったように思います。生徒さんが、ひらがなのア行・カ行・サ行を、すでにほぼ完璧に覚えていたので、教科書の言葉や文を読みながら、すでに学んだひらがなを復習することもできました。
教え子の中に、どういうわけか個人授業の日時をたまに間違えてうちに来る若者が一人いて、どうして間違えるのだろうと不思議に思っていたのですが、そういうことが自分にも起こりうるのだと知り、今後は2度とこういうことのないように気をつけようと考えています。
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Bello il panorama dal Monte Catria, dall'alto (nella seconda foto)
si vedono il Monte Cucco, il Monte Subasio e il Monte Tezio,
anche se i contorni del Subasio e il Tezio erano sfocati per la foschia.
Sorpresa! Il 13 agosto sono andata dalla mia allieva per lezione,
ma ho sbagliato il giorno, la lezione doveva essere il 14.
Per fortuna l'allieva era libera e comunque ho potuto fare lezione.
Non mi era mai successo prima, d'ora in poi sarò più attenta.
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放牧のために木々が育たないこと、少し気になりました。
カリフォルニアでは牛の糞から出るメタンガスの規制に力を入れる昨今です。
雄大な景色で牧場の山としての牧歌的な美しさはありますが、牧草地だけが広がり続けるのも問題ありなのかも知れませんね?
沖縄県石垣市の小さな離島・竹富島でも牛の放牧をしていますが、牛が嫌いな木(硬くて食べれないから・・・と定かではないですがそんな記憶が)が生い茂る牧場があったりします。
ただし牛の絶好の隠れ家になるので牛舎に戻す時に苦労する面もあるらしいです。
そうなんですね。以前に比べると、放牧される動物の数が減っているそうで、夫などは木々が茂ったテッツィオ山の中腹を見て残念がっているのですが、薬草講座では、人間による自然には負荷の高い山の利用だと講師の先生がおっしゃっていました。
今はクッコ山でもテッツィオ山でも、アザミばかりが、トゲが不快でしょうし、おいしくもないのか、草原のあちこちに生い茂っています。草地から森林になっていくとき、あるいは、火事で燃えた山にまた木が生えていくためには、まず草の次にエニシダが生える必要があると、上述の講師の先生が言われていましたが、竹富島には、草ばかりの中でも育つことができる木が、そうすると存在するのですね。
イメージ優先で根拠が無いのですが、なおこさんの記事のような放牧場ならなんとなく許せてしまうのは、自分的に風景写真的にアリというのも勝手なものだと自己嫌悪します(笑)
衛生写真で日本を眺めるとゴルフ場だらけで、強力な農薬まみれの地層を透ってきた雨水が僕たちの飲水になっている事に恐怖します。
ゴルフばにしろスキー場にしろ新たな森林伐採は命を削る行為と思います。
牛は驚くほど硬い草木でもムシャムシャ食べてしまうので、竹富島の木々たちは決定的に別の嫌な何かがあるのかも知れません。
旅行行くと牛舎での餌やりはもちろん、牛の追い込みや牧草ロールの収穫運搬などなど、何故か手伝だったりしてたのでその時に色々教わりました。
島の木々には、何か牛が嫌う理由があるのでしょうね。旅行先で、牛舎で手伝いをされたことがあるんですね!
イタリアでの牛や馬、羊の放牧は、長い伝統があって文化の一つなので、日本で言うと、水田が広がっているのと似たような感覚で夫はとらえているのだと思います。人間の手が入った風景ですが、それがもうそういうものとして、夫の心には感じられるのでしょう。