2019年 08月 15日
日本でもイタリアでも祝い祈る今日、8月15日

そのため、イタリアでは、フェッラゴストには、日頃は野外に出かけない人でも、家族や友人たちなどと海や山、川に繰り出し、また、この日の前後に休暇を取って旅行に出かける人も少なくありません。わたしたちも例年は、8月15日は友人たちと誘い合わせて、山や水辺で過ごすことが多いのですが、今日は、先週の週末に、日曜の大家族での昼食に参加しなかったこともあり、山には人が、道路には車が多く混雑するときに、わざわざ出かけるのはやめようと、うちで過ごし、義家族と昼食を共にしました。

聖母マリアにあいさつをしに行こうとの夫の言葉に、今朝、いつものように、アッシジ郊外にあるサンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会のミサに行って、教会内にいつになく大勢の人々がいて、空いている席を見つけるのさえ難しかったので、驚きました。
アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi)が生前最も心にかけ、聖人が亡くなった場所でもある小さな教会、ポルツィウンコラ(Porziuncola)を包み込むように、後世に建てられた、この大きな教会は、クリスマス当日とクリスマス期間の始まりとなる12月8日の聖母の無原罪の御やどりの祝日にも、例年、ミサが大勢の信者であふれ返るほどです。それは、ふだんはミサに足を運ばない地元の人も、このときばかりはミサに参列するためだと思います。イタリアの守護聖人である聖フランチェスコを慕う人は、イタリア国内ばかりではなく、現教皇が聖人から名を取ったために今はさらに、世界中にいて、今年も夏休みの時期に入ってからは、日曜のミサの人数や、ポルツィウンコラの小さな教会前に並ぶ人が、ひどく増えていました。
けれども、「今日は皆、野外に繰り出すだろうから、教会には人が少ないだろう」と考えていたので、今日の教会の人の多さには本当に驚きました。教会の上にも聖母マリアの大きな金色の像があり、聖母マリアの名を冠する教会なので、休暇の時期でもあり、この日にポルツィウンコラを訪ねるように、旅程を組んでいる巡礼のバス旅行も多いのでしょう。ミサの説教の中で、「指し示す指のその爪ではなく、指の先にあるものを見なければいけない。自分自身の利己心や狭い経験や見識から物事を判断するのではなく、天高くに目を向けて、その高みにあるような視線や心で動かなければ」という言葉が、心に残りました。

夕方は、道路も湖も混雑するだろうからとうちで過ごし、早めに夕食を終えて、トラジメーノ湖で沈む夕日を見送り、また、今日は満月でもあるので、パッシンニャーノに移動して、湖の向こうに月が昇るのが見られたらと考えていました。けれども、夫が疲れているようだった上に、この数日朝晩は気温が下がり、晩の湖畔は北風も吹いて寒そうだっため、結局はうちで過ごしました。
でも、美しい夕焼けは、おととい2週間ぶりに、いつもの店でいつもの友人たちと愛でたばかりですし、

夏や日曜・祝日は、特に天気のいい日には、トラジメーノ湖畔を訪ねる人が急増するため、わざわざ年中で最も人が多く混雑することが予想される今日出かけて行かなくとも、かえってよかったように思います。
西向きの急斜面に建つ我が家からは、昇るのが遅い満月は、傾き始める早朝にしか見えないのですが、

昨日、未明に目が覚めて、月の光のまぶしさによろい戸を開けると、雲間から現れた月が、

周囲をその輝きで照らし出す様子を、見ることができました。
兼好さんも、『徒然草』でこう言っています。「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。」

今日は、日本の終戦記念日でもあります。
写真は、先日クッコ山から見えた眺めなのですが、山から見える風景には、市町村や州の境などありませんし、宇宙から撮った地球の写真には、水をたたえた美しく青い星が見えるばかりで、国境などありません。日本でもイタリアでも、特に政治ニュースを追っていると、最近自国の民や利益ばかりを重んじたり、弱い立場にある人を虐げたりする風潮が目立つようになり、一般の人々の発言にもその憂うべき風潮が反映され、特に日本では、再び戦争へと突き進んでいくのではないかという危惧を感じさせないような動きが見えて、不安を感じています。皆が己の利を重んじていては、家族も地域も国も争いの場となり滅んでしまうと、孟子も唱えていたように思います。
蜘蛛の糸が己のみのものと叫んだ途端に、主人公は後に続いていた人々と共に奈落の底に落ちてしまいます。漁夫の利の故事では、争うハマグリとシギは、通りかかった漁夫に捕えられ、ハマグリもシギも命を失う定めとなります。我が我がと国どうしが些細なことで争えば、漁夫ならぬ死神、戦争という権力者や武器製造者を血迷わせ、大勢の人々の命を奪う魔に、国が乗っ取られてしまう恐れがあります。皆が過剰な利己心や猜疑心で、何らかの点で自分とは違う人や他国の人を見て接するのではなく、思いやりと敬意を持って、互いに手を取り合って支え合い、共に進んでいける存在として接するような世の中、平和な社会へと、日本やイタリアが、そして世界が向かっていくことを、心から願っています。
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Il 15 agosto, l'Anniversario della fine della Guerra e secondo la credenza
uno dei giorni in cui le anime delle persone defunte tornano alla terra in Giappone.
In Italia invece l'Assunzione della Beata Vergine Maria e Ferragosto,
oggi piena delle persone la Basilica di Santa Maria degli Angeli di Assisi.
Piena stasera anche la luna, purtroppo ancora non l'ho vista,
ma forse come l'altro ieri riuscirò a vederla domani prima che tramonti.
Non esistono i confini nei panorami che vediamo dall'alto dei monti.
Mai più guerra, no more Hiroshima, no more Nagasaki.
Foto: Tramonto al Lago Trasimeno, San Feliciano, Magione (PG) 13/8/2019
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参照リンク / Riferimento web
- treccani.it - FERRAGOSTO in "Enciclopedia Italiana"


日本と隣国との政治、経済の摩擦報道を見ていると、まるでお互いの怒りを煽りたいのかと思ってしまいます。
国同士に様々な問題がおこることはどこでもあると思いますが、それを理性的に解決するのが外交ではないの?と思います。私も含めて、一般人が簡単に時の風潮に流されいく様子を見にしみて感じています。
私は海外旅行が好きで以前はよく行っていました。ツアーではないので現地の人(といっても観光業の人ですが)とコミュニケーションするのが好きでした。
その中で、イタリアを除いて嫌な思いをしたことがありません。イタリアは訪れた回数が多いので比率が高くなるのでしょうね。個人差がはっきりしているのでアジア人嫌いの人には近づかなければいいだけです。
今の雰囲気の中で私を支えているのは
韓国旅行中の親切だった人々の顔です。本当に親切にしてもらいました。一般の人々同士は普通なのに、それが政治の流れに流されていくのでしょうか。
せめて私はそうではなく、あの時出会った人々が幸せであるように願っていきたいです。
そんな美しい光景をよそに、アメリカをはじめヨーロッパの各国その他世界中であまりうれしくない排他的な傾向が続いて心配なことです。
何らかの点で自分とは違う人や他国の人にたいして排他的にならずに、仰るように、思いやりと敬意を持って、共に進んでいけるような風潮に、どこかで流れが変わればいいのにと、私も思います。
イタリアでは、社会が変わってきたために宗教離れ、世俗化が起こった他、これまでのカトリック教会の在り方で、たとえば離婚手続きの簡素化や人工妊娠中絶、安楽死など、市民の生活や女性の権利、尊厳死に関わる法案について、教会が介入してきたことがあったり、聖職者の性犯罪を教会がかばってきたことや、そういう犯罪があったことを隠してきたりしたこと、ひどく豪華な暮らしを営む高職にある聖職者の生活ぶりなどから、キリスト教から心が離れたり、他宗教に関心を持ったりする人も少なくないようです。一方、被災はむしろ、信仰する人の神への思いを強固にしているような印象を受けます。
イタリアやアメリカ、日本など世界で、他国や命を追われて亡命をしてきた人々、異なる生き方や国の人に対して、差別・偏見の風潮が高まり、またそれを煽るような政治家が要職にあることが信じられず、許されないことだと個人的には考えています。
そういう状況を何とか変えようという動きが、票につながっていないことに危惧を覚えつつ、今後状況が変わっていくことを心から願い、自分には何ができるだろうかと思う日々です。
イタリアで嫌な思いをされたことが何度もあるのですね。残念なことです。わたしも以前に比べて、外国人、東洋人を懐疑的な、批判的な、差別的な視線で見るようになった人が増えてきているように感じています。これはマスメディアの報道や無責任かつ差別心をむき出しにして暴言を繰り返す政治家の影響も大きいと思います。人々の生活が苦しいのは、亡命してイタリアに来る人々のためではなく、マフィアの存在のためであり、また、政治家が多額の収入を、在職中も退職後も年金として得ていたりするためであるのに、治安が悪くなったのを移民のせいにして、移民に非がある場合のみに、ことさら犯罪や事故のニュースを大々的に報道するマスコミに、生活苦や治安悪化についての国民の怒り・不安を、弱い立場にある移民への憎悪に置き換えようとする政治家たち、そういう報道や国の姿勢をそのままそうと単純に受け入れ、洗脳されてしまう人が少なくないことが嘆かわしいです。
そうではない、それではいけないことを、個人のレベルで、訴え続け、表などを通してあるべき方向に国や政治を変えていけますように。
排他的な姿勢は、倫理的におかしく、差別や偏見が許されないばかりではなく、よそに向けて投げた雑言や憎しみ、差別的行動、排他的行動は、結局は自らに向かって戻ってくるという点でも、国政がどこかで戦争を望んでいるのではないかとさえ思えてきます。世界中でそういう間違った方向に世の中が向かっているようで不安です。戦争を知らない世代になったこと、忘れ去ろうとしていることに危惧を覚える、その恐ろしさを伝えていかなければいけないと、モンテレオーネ・ディ・スポレートで出会ったイタリアの人たちも言われていて、わたしも同感です。

イタリアについて追記しますね
イタリアへは住んだり長期滞在したことがないので、あくまで短期旅行の感想です。意地悪な人達は年配者に多い気がしました。おおまかには全体の2割~1割くらいでしょうか?それ以外は親切でユーモアある返事をしてくれたり楽しい思い出がたくさんあります。
個人的見解ですが、イタリア人は一般的に”個人そのまま”という印象です。
日本だと勤めている所の顔なのだから、という気持ちを持たせられると思いますが、そういうのがないのだと思いました。ある意味、率直ですね。
だから、接客も”お客様は神様”というより自分の気持ちに素直に友達のようであったり、そうでなかったりするのかもしれません。
それでも、イタリアは私の後半生に大きな位置を占めています。
始まりは料理にひかれたイタリアでしたが、イタリア語を習い始め、イタリア人作家物を読み、旅行を繰り返し、好きな部分も嫌いな部分も含めて欠かせない物になっています。
数年前、家族が病気になって生きづらいと感じたとき、イタリアで心が開放されました。
そうよ、なんでもありよ、と思えるような気持になれました。
イタリアについて、決して悪い印象を持っていないということをお伝えしたく、長々書かせていただきました。
いただくコメントから、accaesse様のイタリアという土地や文化への想いの大きさと深さを拝察しています。今、よからぬ方向に変わりつつある傾向がひしひしと感じられる日本とイタリアで、他国から訪ねる人が同じような思いをされないような社会や教育、政治になってほしいと、心から感じています。