2020年 03月 06日
第122号「伝えたいのは笑顔と強さ、新型コロナウイルス イタリアの状況」
1.伝えたいのは笑顔と強さ
今号では、現在ペルージャで開催中の女性写真展、Donna vede Donnaの詩が、イタリア語の学習教材です。まずは、アナスタージア・トロフィモーヴァの写真とマリーナ・セレーダが添えた詩をどうぞ。以下、詩の日本語訳はすべてわたしによるもので、時に若干の意訳があります。

Odore di mele.
Fruscio di foglie cadute
Tuo viso che mi sorride
Dalla vecchia cornice
Età di felicità:
Quando non sai nemmeno
Se sei felice
詩の最後の行にあるfeliceは「幸せな、幸福な」を意味する形容詞で、題名にあるfelicitàはその名詞で「幸せ、幸福」を意味します。女性写真家は、あらゆる年齢において日々のささやかなできごとに喜びを見出せる女性の姿をとらえて、その喜びを写真を見る人にも伝えようと試みています。
りんごの香り
落ち葉がかさかさと立てる音
古い額縁から
わたしにほほえむあなたの顔
幸せな歳、
自分が幸せであるかどうかさえ
知らずにいるとき
一方、この跳び上がる少女の写真は、エレーナ・サンティーニの作品で、やはりマリーナ・セレーダが詩を添えています。

La libertà
Con un salto volo
Sopra le nuvole
Fino le stelle
Oltre le mie paure
動詞、volare「飛ぶ」とcantare「歌う」がサビとして繰り返されるイタリアの名歌、『Volare』をご存じの方は多いと思います。1行目にあるvoloは、その動詞、volareの直説法現在で主語が一人称単数のときの活用形ですから、ここでは「わたしは飛ぶ」という意味で、どこに飛ぶのかは詩の2行目と3行目、そして「恐れ、恐怖」(paure)を越えていくのだと4行目で、語っています。
一跳ねで飛んでいく
わたしは雲の上へ
星のあるところまで
恐れや不安を飛び越えて
次に、リータ・ペッチャの作品、「女性、喜びあふれる少女」の写真と、グラツィエッラ・マッラマーチの詩をご紹介します。

Donna
Tutto muta e cambia
Ma ciò che è vero
Non svanisce,
muta solo d’aspetto
題名のdonnaは「女、女性」を意味します。イタリア語の「女」、donnaという言葉の中に、日本語の「女」(onna)が隠れているのが興味深いです。ですから、この女性写真展の名前、Donna vede Donnaは、直訳は「女性が女性を見る」なのですが、語順を優先して「女が見る女」と訳しておきます。1行目および2行目に登場する動詞mutare、cambiareは、いずれも「変わる」を意味する自動詞で、muta、cambiaは直説法現在の主語が三人称単数のときの活用形です。「すべて」(tutto)が変わっても、真なるものの本質は残り、変わるのは「外見」(aspetto)だけであるとして、女性の持つ優しさや繊細な感受性、喜びを見出す力や強さなど、真の特質はいつまでも変わらないと伝えているのではないかと思います。
すべては移り変わりゆく
けれど真なるものは
消え去ったりしない
ただ外見が変わるだけ

5人の女性写真家が、女性を主題・対象として一人5枚ずつ写した作品に、9人の女性が詩を添えた女性写真展、Donna vede Donnaの作品は、Festa della Donna「女性の日」である3月8日日曜日まで、ペルージャのペンナ宮殿で鑑賞することができます。入場は無料です。2月28日の開会式には、多くの人が会場に集まり、ちょうど新型コロナウイルスで、実際の感染よりも恐怖や差別という害の広まりが懸念される中、大勢の人々の参加があり、「ウイルスや恐怖に負けず、女性尊重や共生社会への動きをこそ広めていこうという市民の思いが感じられます。」というペルージャ市代表の言葉が、心に残りました。

この写真で、奥の壁に展示されている二人の女性写真家の作品は、わたしが俳句と詩のイタリア語訳を担当しています。興味のある方は、ぜひ次のリンクから作品をご覧ください。
- 女性が神であったとき 写真 アントネッラ・ピゼッリ 俳句・伊訳 石井直子 / "Quando le donne erano Dee" fotografie di Antonella Piselli & haiku e traduzione di Naoko Ishii
- 母と娘 写真 アントネッラ・マルツァーノ 俳句・伊訳 石井直子 / "Madre e Figlie" fotografie di Antonella Marzano & haiku e traduzione di Naoko Ishii

開会式では、女優であり歌手であるフロリアーナ・ラ・ロッカ(Floriana La Rocca)が、イタリア語で書かれたすべての詩を、ミルコ・ボヌッチ(Mirco Bonucci)のギターの伴奏と共に、情緒たっぷりに読み上げ、すばらしい歌も聞かせてくれました。

こちらは、開会式のあとに、共に写真展に参加する仲間たちと撮ってもらった記念写真です。写真の女の子は、アニメと東京が大好きだと教えてくれました。
女性写真展、Donna vede Donnaは、今後もウンブリア、イタリア各地、そしてロシアでも展示が行われる予定です。機会があれば、ぜひ作品をご覧ください。
女性写真展、Donna vede Donna「女が見る女」
- 女性による女性の写真展 @ サン・フェリチャーノ / Donna vede Donna a San Feliciano (20/11/2019)
- 陶器の町デルータで女性写真展、日本語で俳句も朗読 / Inaugurazione mostra a Deruta (9/2/2020)
- 女が女を写し詠む写真・詩・俳句展、ペルージャへ / Donna vede Donna a Perugia (26/2/2020)
2.新型コロナウイルス イタリアの状況
感染状況とイタリアにおける感染者数や政府および各地における対策は、次の記事中にリンクのある在イタリア日本大使館と海外安全ホームページに、詳しい情報が掲載され、随時更新されていますので、参考にしてください。
- 新型コロナウィルス イタリアの現状 大使館詳細情報リンクとお客さまへの手紙 (2020/2/29)
- 新型コロナウィルス イタリア ローマに感染者2名 (2020/1/31)
- 優しくありたい (2020/2/4)
- 新型コロナウィルス北イタリアで感染拡大、ミラノ・ベネチア観光に影響 (2020/2/24)
現在は、ウンブリアでも12人の感染者が出ていますが、すべてイタリア北部で感染したと判断されている上に、感染者はすべて隔離、あるいは自宅で静養となっており、感染者と接触があり、感染の可能性がある人は検査を受けていますので、現時点では、ウンブリアでは、それほど感染を恐れる必要はないかと思います。(*追記: 3月15日現在での感染拡大やイタリア全土での移動制限については、記事末リンク先の情報をご参照ください。)

今週日曜のミサに出かけて、いつもは大勢の人が集うアッシジ郊外の教会にも空席が目立ち、驚いていたら、わたしが日本語を教えるイタリアの若者たちが、ペルージャ外国人大学への日本からの留学生の皆さんと教会内を歩いていたので、さらに驚きました。教え子のジューリアさんは、大学で資格を取得し、イタリア語を教えていて、サイトでイタリア語や文化を英語で紹介しています。興味のある方は、次の記事をご覧ください。
- 日本の留学生ご一行と優秀な教え子たち、アッシジ (2020/3/2)
では皆さん、どうかお体を大切に、お過ごしください。世界中で、少しでも早く、皆が穏やかな日々を送れる日が戻ってきますように。
*追記(3月15日): 感染拡大により、3月8日は北部イタリアを中心とする感染者の特に多い地域で、移動が制限され、現在ではさらなる拡大を懸念して、イタリア全土で4月3日まで移動制限が行われることとなり、3月12日にはバール・レストランが休業となるなど、制限がさらに厳しくなりました。
- うちにいよう 命を守ろう、イタリア 新型コロナウイルス対策で全土移動制限 (2020/3/10)
- 制限が厳しくなる中さんぽ買い物、ペルージャ (2020/3/15)
*これまでおよび今後の状況の詳細は、下記リンク先のローマの日本大使館サイトでご確認ください。
- 在イタリア国日本大使館 - イタリアにおける新型コロナウイルス感染関連情報(追記了)
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*2020年3月追記: ヤフージオシティーズのサービス終了のため、現在、このブログにバックナンバーを少しずつ移動中です。


いま、イタリアはコロナ騒動の真っただ中ですね。日本も連日テレビでコロナのことばかりです。日常が破壊されているような気がします。外国の写真家の写真を見ていつも思うのですが、人を撮ると言う行為の日本人との決定的な差を感じます。
日本人はどこか一線を引いていて、外国の写真家は被写体の心のなかに入り込むような写真を撮る人が多いような気がします。
ものをはっきりと言わない文化、婉曲に表現する文化では、人物写真も同様に、撮る対象である人の何をとらえるかが変わってくるのかもしれませんね。