2009年 11月 07日
第26号(1)「義父母の金婚式とペルージャ死者の市」
1.義父母の金婚式
アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d’Assisi)が亡くなったのは、1226年10月3日の晩から4日にかけてであり、そのためカトリック教会では「10月4日」(イタリア語では、il 4 ottobre)が、聖フランチェスコを偲んで祝う記念日とされています。
数多い聖人の中でも、殊に聖フランチェスコを慕っている夫の両親は、ちょうど今から50年前に、この特別な日、10月4日を選んで、結婚しました。
どのくらい聖フランチェスコに対する崇敬の念が深いかは、義母が「生まれてくる我が子を、フランチェスコと名づけたい」と望み続けたことからも分かります。
にも関わらず、実は義母は3人の息子のうちの誰にも、結局「フランチェスコ」という名前を与えることができませんでした。心優しい義母は、笑いながら、「でも3人とも、実は名前が三つあって、他の二つの名前も教会名簿には記載されているんだけど、3人とも、三つの名前のうち一つはフランチェスコなのよ。」と語ってくれました。
長男である夫は、生まれる前に、義母の父である祖父が亡くなったため、その祖父の名前、ルイージを受け継ぐことになりました。今ではごく少ないようですが、当時は亡くなった家族の名前をつけるということがよくあったようで、他にも名前(nome)を祖父(nonno)や祖母(nonna)からもらったという友人・知人が何人かいます。
夫の弟が生まれた年は、ちょうど教皇パウロ6世(イタリア語では、Papa Paolo VI)が就任した年でした。同居していた義母の兄が神父であったためもあり、生まれた息子の名前は、パオロとなりました。
そして夫の最年少の弟が生まれたのは、4月25日。この日は、カトリック教では聖人とされているマルコを記念する日であるため、息子の名前は「マルコ」となりました。聖マルコは、イタリア語ではSan Marcoです。ヴェネツィアの観光名所に、サン・マルコ広場(Piazza San Marco)とサン・マルコ大聖堂(Basilica di San Marco)があるのは、ご存じの方も多いことと思います。
9世紀に、聖マルコの聖遺物がエジプトからヴェネツィア共和国に運ばれ、聖マルコがヴェネツィアの守護聖人となったために、中心にある大広場と大聖堂がSan Marcoの名を持っているわけです。聖マルコと『新約聖書』の「マルコの福音書」は、古来絵画や彫刻で、ライオンのシンボルで表されてきました。そのため、サン・マルコ広場を初め、ヴェネツィアのあちこちで、聖マルコを象徴する有翼のライオン像が見かけられるわけです。
夫の母、義母は、日本語で言うと「姑」、イタリア語で言うとsuoceraという言葉を使うのがはばかられるような、とても穏やかな優しい人です。末娘として生まれ、長い間、気性の激しい母と神父である兄と共に暮らしてきたためもあり、夫に言わせると「人に奉仕する人生に慣れ過ぎて、今も働きすぎ」ということなのですが、とても思いやりのある方です。やはり働き者の義父が普段は陽気で大らかなのに、何か間違ったことがあったり、自分の主旨に合わないことを身内がしているのを見たりすると、気難しく口うるさいところもあるので、そのためかもしれません。
義父母は、定年まで市役所で働き、今は年金で生活しているのですが、義父は、家の菜園やオリーブ畑の手入れ、頼まれての草刈りや庭木の剪定、祖母は家の中でこれまたサクランボ・イチジク・プラムなど庭の果実がなるたびにその収穫やジャム作り、干しブドウ作り、保存用のトマトソース作りなどに励み、二人ともいつも休むことなく忙しく働いています。そうすることで生きがいを感じ、また毎日をそう暮らすことが当たり前の時代に生きてきた世代でもあるわけです。
50年の結婚生活を経て、今なお互いを大切に思い、敬い続ける夫の両親はとてもすてきだと思います。うちの夫は、優しい母と気難しい父に育てられたためか、心優しいものの、気難しいところがあります。イタリアの人というのは、苛立つとかなり厳しいことを激しく言うものの、しばらくすると忘れたようにケロッとしています。逆に私の方は、言い方に容赦のないイタリア風の物言いにひどく心が波立ち、いつまでも尾を引いてしまいます。
それに、私は日本ではどちらかというと物をはっきり言いすぎるくらいであったのに、イタリアに来てから、自分が「はっきりNOと言わないこと」に気づいてきました。自分では「NO」と言っているつもりなのだけれど、実は「できない理由をあれこれ並べ挙げて、NOであることを相手に推測させる」という日本文化独特の拒否の表現を使うことが、イタリアに住み始めてから7年以上たった今でも、まだあります。長い人生で知らず知らずのうちに身につけてきた習慣ですから、変えるという以前に、自分自身でそれを意識するのさえ難しいのですが、夫の方が「私がNOと言っているんだか、いないんだか分からない」と困ってしまうことが時々あり、気をつけなければいけない、と思います。
というわけで、時折り夫ともめる際に、それが文化の違いによるためであったりする場合も多いのですが、逆に生まれ育った文化や環境が違うおかげで、お互い新しく学びあったり、新しい刺激をもらったりすることも多くあります。90kmもの道のりを重いリュックサックを背に歩こうなんて、以前の私なら、思いもかけなかったことでしょう。
自然を愛する夫のおかげで、時間を見つけては近所でも野山を歩き、木々や花を愛で、鳥の歌声に耳を傾けることができるようになりました。さまざまな職業の、さまざまな年齢の人と話をして、経験や気持ちを分かち合ったり、学んだりできるようになりました。
イタリア人というと、「陽気で親切」、特に男性については「女性をほめるのが上手」などという固定観念があるようですが、うちの夫は親切ですが、どちらかというと知らない人の前ではあがってしまう小心者で、一方、相手が親しい人だと、腹を立てやすく、無器用です。親切で、また寛大であり、気心の知れた相手には本当に心を打ち明けて親友として接し、大事にする代わりに、気難しく、腹を立てたら容赦をしない。
それが難しいところなのですが、もしかしたら、というか、きっと私が夫にひかれたのは、そういう難しさ、無器用さの奥にある純粋さのためなのだと思います。計算して、口先だけで物を言うようなことはできない人で、だけど家族でも友人でも、あるいは知らない人でも、大切に思って接し、できるだけのことをしようとする……
義父母の金婚式(nozze d’oro)は、ごく少数の家族だけで祝いました。ペルージャの北、車で45分ほど行ったところにあるSantuario di Canoscioの教会のミサに参加し、その後近くのレストランで、金婚式を祝っての昼食会。
わざわざ遠方のSantuario di Canoscioまで出かけたのは、この教会の建立には義母の祖先も参加しており、家族に縁の深い教会だから、という理由があります。
50年という歳月も、1日1日、1分1秒の積み重ね。一期一会、今この瞬間に同じ時を共有できることに感謝して、お互いを大切に思いながら、年を取ってからも、義父母のように、夫と温かく見つめあえたら、と思いました。
2.ペルージャ 死者の市 / Fiera dei Morti a Perugia
ペルージャでは、今年も11月1日から5日まで、毎年恒例のFiera dei Mortiが盛大に行われました。Fiera dei Mortiは訳すと「死者の市」となります。
私も知らなかったのですが、どうもこの市の歴史は古く、中世にまで遡るようです。
以下のリンク先のページから、歴史を簡単に述べた部分を引用します。中級・上級の方は大意を汲み取るべくざっと読んでみてください。
(*2020年5月追記:以下二つのリンクは、現在では無効となっているのですが、出典元の記載のため、URLだけ残してハイパーリンクを削除しました。)
Fiera dei Morti a Perugia
http://www.folclore.eu/It/Eventi/Evento.asp?Id=1113
“La ‘Fiera dei morti’ di Perugia risale all’epoca medievale: si hanno testimonianze scritte della Fiera sin dal 1260 - definita già allora come “consuetudinaria” - e il suo nome era allora “Fiera di Ognissanti”, essendo collocata nel periodo di tale ricorrenza religiosa. ”
「ペルージャの『死者の市』の歴史は、中世にまで遡る。市の開催を証言する記述は1260年のものから存在する。死者の市は、当時すでに『慣例的なもの』として定義されており、当時は、名を『諸聖人の市』と言った。これは、死者の市の立つ時期が諸聖人を祝う宗教的な祝祭の時期にあたっていたためである。」(「 」内は石井訳、以下も同様。)
11月1日は、カトリック教会では「諸聖人の日」(La festa di Ognissanti/Tutti i Santi)という祝日で、イタリアではこの日が国民の休日でもあります。残念ながら、今年は日曜日で、振り替え休日のないイタリアでは休みが1日増えるというわけにはいかなかったのですが……
その翌日、11月2日は「死者の日」(Commemorazione dei defunti)であり、キリスト教・カトリック教会で、死者のために祈りを捧げる日とされています。この日の前後には、大勢の人々が、手向けの花と共に、家族や親戚のお墓参りに墓地(cimitero)を訪れます。私たちの家でも、遠方に住んでいる親戚が我が家近くの墓地まではるばる墓参りに来た帰りに、我が家にもあいさつに立ち寄るということが、この数日の間に何度かありました。国民の休日ではないのですが、トーディで小学校に通っている姪っ子たちの学校では、11月2日も学校が休みで、姪っ子たちは連休を大いに楽しんでいました。
先の説明文の続きには、中世に「死者の市」(当時の名称は「諸聖人の市」)で売買されていたのは、農産物(prodotti agricoli)と家畜(bestiame)であったと書かれています。市が立つ時期についても、秋で収穫された農産物が豊富にあり、厳しい冬に入る前に地元の人が食糧を蓄えるのに役立つ時期であったという説明があります。
一方、現在のFiera dei Mortiでは、農産物・動物の他にも、さまざまな品物が露店で売られています。今年の死者の市のプログラムには、どこで何を売っているかという図があり、たとえば次のような名詞が並んでいます。
1. abbigliamento 2. ferramenta 3. caccia e pesca 4. ceramica
5. giocattoli 6. legno/mobili 7. pelletteria/borse 8. tappeti
9. libri, quadri, stampe 10. calzature
どんな商品があるのかお分かりになりましたか? 答えは以下のとおりです。
1. 衣服、衣料 2. 金物類 3. 狩猟・釣り用品 4. 陶器
5. おもちゃ 6. 木材/家具 7. 皮革製品/バッグ 8. じゅうたん
9. 本、絵画、版画 10. 履き物
ウンブリア独特の食べものの一つにポルケッタ(porchetta)があります。豚の内臓を取り去って、そこに香辛料(spezie)をつめこみ、そのまま丸ごと、薪をくべた窯(forno a legna)でじっくりと焼き上げたもので、露店で頼むと頼んだ量だけスライスして紙に包んでくれたり、パンにはさんでパニーノ(panino)にしてくれたりします。深みのある味わいがおいしくて好きなのですが、この死者の市に限らずイタリアの市場(mercato)では、こういうポルケッタやサラミ・ソーセージ(salame)、ハム(prosciutto)やチーズ(formaggio)を扱っている露店もたくさんあって、地方の特産物を買うこともできれば、簡単に食事をすませることもできます。チョコレートやパイ、ケーキなどの甘いものもあちこちで売られています。
今年の死者の市は、例年通り、ペルージャの中心街(Centro)とPian di Massiano(ペルージャの町外れにある広場で、サッカーのスタジアムの近く)で行われました。先の記事にもあるように、ペルージャのみならず近郊の町からも大勢の人が市を訪れ、目玉商品を探したり、いろいろな商品を見て歩くのを楽しんだりしていました。
先の市の説明文の続きを見ていくと、中世の死者の市では、さまざまな古来からの伝統競技が行われていたとあり、la caccia al toro (雄牛狩り)、la corsa dell’anello(羊のレース、競馬ならぬ「競羊」!)、la corsa del palio o della quintana(競馬レースあるいは槍競技)といった競技の名が連ねてあります。14世紀までは盛んに行われていたこうした競技が、年を経るに従って減少し、やがては全く行われないようになってしまったと書かれています。
説明文には続いて、この数十年間はluna park(遊園地)やbaracconi(サーカスなどの小屋)が伝統的競技に取って代わった旨が記されています。11月2日月曜日に学校が休みだった姪っ子は、日曜の晩祖父母宅で眠り、翌日大はしゃぎで、祖父母の手を引いて、死者の市のbaracconiへと出かけて行きました。
この死者の市は、季節の変わり目も感じさせるペルージャの一大行事で、説明文の冒頭には次のようにあります。
“è difficile che un perugino non faccia almeno una visita alla fiera e non acquisti qualcosa. ”
「ペルージャの人が少なくとも一度は市を訪れ、何かを買わずに過ごすということはまずありえない。」
difficileという形容詞の第一義は「難しい」ですが、この例のように「ありえない、可能性が少ない」という意味で使われることもあります。対義語はfacile、形容詞で「易しい、あり得る、起こる可能性がある」です。
このペルージャの代表的な行事の際に食べるお菓子に、fave dei mortiがあります。直訳すると「死者のソラマメ」なのですが、白いビスケットです。ソラマメ(fave)の形をしていますが、大きさは普通のビスケットと同じくらい。
以下のリンク先のページをご覧ください。ソラマメが古代ギリシャ時代から、死に関わる儀式で用いられていたことを説明したあとで、このビスケット、fave dei mortiの原材料名と作り方を記しています。
Fave dei morti
http://www.paesaggi.regioneumbria.eu/Default.aspx?idCont=200416
“Ingredienti: mandorle dolci e mandorle amare, albume d’uovo, zucchero, buccia di limone grattugiata.”
材料が何だかお分かりになりますか。ご存じの単語や英語で似た単語、お菓子の材料として使われそうなものを手がかりに考えてみてください。
では、訳してみますね。
「原材料:スイートアーモンドとビターアーモンド、卵白、砂糖、すりおろしたレモンの皮」
アーモンドの使用から想像がつくかと思いますが、とても甘いお菓子です。名物ですので、この時期に見かけたらぜひ食べてみてください。
ちなみに、義母の家では、代々11月2日の死者の日に「ソラマメ」を料理して食べる習慣もあるとのことです。2日はたっぷりソラマメ・スープを作って、私たちにも分けてくれました。義母が生まれ育ったペルージャ県北部、トスカーナとの州境にあるレスキオ(Reschio)という町では、この日にソラマメを食べる風習があったということです。
最後に、mortiという言葉について。第21号でも出てきたmortoという言葉は、もともと動詞morire(死ぬ)の過去分詞なのですが、名詞として「死者」という意味でも使われます。先のFiera dei Mortiやfave dei morti といった表現にあるmortiは、「死者」という意味の名詞です。
名詞として使われる場合にも、過去分詞・形容詞として「死んだ、亡くなった」という意味で使われる場合にも、mortoという単語が、亡くなった人の性と数によって形を変えることにご注意ください。亡くなった人が一人で男性であればmorto、女性であればmorta、死者が複数で女性だけであればmorte、中に一人でも男性がいればmortiという形をとります。先のFiera dei Mortiという表現では、死者の市はすべての死者を対象としていますから、名詞の形がMortiと男性・複数の際の形になっています。
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ご結婚50周年おめでとうございます。
かつては50周年迎えるのは珍しいことでしたが、長生きになってきた昨今は60年、65年というのも聞いたことがあります。どうぞこれからも末長くお幸せに!
一日違いで我が家は10月3日が結婚記念日です。
差し置いて40年を目指してはおりますが如何でしょうね。
まあ、お二人の記念日は10月3日なんですね! 40周年、楽しみですね。