2020年 06月 21日
ペルージャ解放記念日と義父が語る連合軍砲撃


今日は、この記念碑のもとで厳粛に式が催されたという報道が、昼の地方ニュースでありました。

以前に、モンテカッシーノ修道院が、本当はドイツ軍がだれ一人いなかったのに、いるとの誤解に基づいて連合軍に爆撃されたことについては記事にしていますが、ウンブリア州でも、ドイツ軍がすでに退却した地域を、連合軍が砲撃することがあったそうで、義父母からそれぞれが当時住んでいた村での終戦時の状況を聞いて驚きました。

この写真は、先日友人たちと歩いたときに撮影したもので、奥にテッツィオ山、その中腹にミジャーナの村が写っています。
1944年、まだ少年だった義父が家族と暮らしていたミジャーナでは、それまで村を占領していたドイツ軍がすでに退却していたにも関わらず、連合軍による砲撃が始まり、テッツィオ山や村のあちこちで、被害や犠牲者が出たそうです。そのために、もうドイツ軍はおらずイタリアの一般市民が残っているだけだと連合軍に連絡しに行くために、志願者が村を出発したのですが、その際に義父も、あちこちに地雷が敷かれていた道を長く皆と歩いて、連合軍の兵士たちのところまで行き、白旗を掲げて、もうドイツ軍はいないのだと告げて、それでようやく攻撃が収まったのだそうです。

戦争と言えば、わたしの日本語の教え子である13歳の少年は、他の多くのイタリアの中学3年生と同様に、中学校の卒業に際して、写真や図を示しながら口頭で自分が選んだ主題について、様々な教科と関連づけて、オンラインで多くの先生方の前で発表することになっていて、少年が日本を主題に選んだので、ずいぶん前から、日本語の授業の際に、または電話で問われて、少年がきちんと準備と発表ができて、あり得る質問に答えられるようにと、わたしも何かと要望に応えて、あれこれ調べたり答えたり、助言をしたりしています。その発表が来週月曜日で、今日も電話で話をしたのですが、歴史については、第二次世界大戦を中心に取り上げるつもりだそうなので、その当時の日本について、あれこれ質問がありました。
今もまだ戦火の絶えない国が世界にはあり、戦どころではない今のような状況においてさえ、他国と話し合って軋轢を解決する代わりに、交渉を絶つなどして国際関係を悪化させる国やそういう政治家が、残念ながらいます。多くの人の命や日々の平穏な暮らしを奪う戦争が起こらないことを願い、本当に国民のことを考えて、平和な世の中を実現してくれそうな為政者を選ぶ、その判断と意志と実行が、今ほど必要とされるときはないように、切に思う今日この頃です。
関連記事へのリンク
- ペルージャ花めぐり1
- 英米連合軍によるモンテカッシーノ修道院の爆撃


幼いころ、戦火の爪痕は、何か所か目にしました
アメリカ軍が、まだ注軍していたらしいですから
成長段階は、日本は前しか向いてこなかったのです
戦後・・75年・・
いまだに色々な形で戦の爪痕を感じます
正しい?正しくない?ではなく
愚かな行為だと知ることでしょうか?ね
イタリアでは、日本よりも近代史(特に第二次大戦時の)の教育が徹底しているようですね。
ドイツもそうです。
日本も、子供たちに詳しい近代史を教えるべきだと思います。
今テレビでトランプの選挙ラリーを報道しています。
世の中が、原始の昔から「左と右」に分かれていたとしか考えられない輩。
みんな「左」のせいダァ〜と、だみ声で怒鳴っています。
人と人をけしかけて、その隙に利を得ようとする政治家は、廃さなければなりません。
なんとか世界が危険な方向に向かわないといいのですが・・・。
そのドイツがペルージャを占領していた その経緯は勉強不足でよくわかりませんが、イタリアの少年は熱心ですね
何年か前のことですが、日本のある若者が、日本がアメリカと戦争していたと聞いて「え、マジっすか?」と驚いいていたと聞いたことがあります イタリアの少年比べて恥ずかしいですね masa
白と黒、自らの利益、目先の結果だけしか見えないような為政者こそ、諸悪の根源だと感じることの多い今日この頃です。最後の行に書かれているような政治家、イタリアにもいて、顔を見るのも嫌でうんざりしています。
世界情勢も日本も、どうか本当に危険な方向に向かいませんように。
この頃のイタリアの政治的状況は話すと長くなり、上のciao66さんへのコメントでも少し言及しているのですが、ウィキペディアでは「イタリア」のページで、「1943年7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国が北イタリアを支配する状況になる。」とまとめています。ムッソリーニ政権の頃から、独立政権やその政治に反対する動きはあり、多くの人が投獄され、レジスタンス運動を行っていて、戦時中にはパルチザン部隊が、ドイツ軍と戦っていました。ムッソリーニは別として、「イタリアが裏切った」という意識からか、その頃にイタリアの村や民間人を、ドイツ軍が各地で占領、攻撃、略奪していたと、その歴史を文学作品や歴史番組、義父母の話やペルージャ外国人大学での歴史の授業などで知る機会があり、また、旅先でそうして破壊された教会や町の跡を見かけることも時にあります。味方であるはずの連合軍による砲撃・爆撃は、ドイツ軍はいなかったイタリアのモンテカッシーノ修道院に対して行われた上、フランスのノルマンディーでもルーアンやルアーヴルでもあり、特にルアーヴルは町全体が破壊されてしまっていて、旅先でそれを知ったときには驚くと同時に、戦争の恐ろしさを改めて感じました。
この頃のイタリアの政治的状況は話すと長くなり、上のciao66さんへのコメントでも少し言及しているのですが、ウィキペディアでは「イタリア」のページで、「1943年7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国が北イタリアを支配する状況になる。」とまとめています。ムッソリーニ政権の頃から、独立政権やその政治に反対する動きはあり、多くの人が投獄され、レジスタンス運動を行っていて、戦時中にはパルチザン部隊が、ドイツ軍と戦っていました。ムッソリーニは別として、「イタリアが裏切った」という意識からか、その頃にイタリアの村や民間人を、ドイツ軍が各地で占領、攻撃、略奪していたと、その歴史を文学作品や歴史番組、義父母の話やペルージャ外国人大学での歴史の授業などで知る機会があり、また、旅先でそうして破壊された教会や町の跡を見かけることも時にあります。味方であるはずの連合軍による砲撃・爆撃は、ドイツ軍はいなかったイタリアのモンテカッシーノ修道院に対して行われた上、フランスのノルマンディーでもルーアンやルアーヴルであり、特にルアーヴルは町全体が破壊されてしまっていて、旅先でそれを知ったときには驚くと同時に、戦争の恐ろしさを改めて感じました。