『Uno, nessuno e centomila』という題名は、日本語に訳すのが難しいのですが、英語だと『One, no one and one hundred thousand』と直訳して、そのまま意味が通じます。
「あなたの鼻は一方にゆがんでいるわよ」という何気ない妻の一言をきっかけに、主人公は、あきれるほどまでに「自分とは何ぞや」についてあれこれ考えて思い悩みます。
「なんということだ、わたしがこれこそ自分だと考えている自分の姿と、他人がわたしをこういう人間だととらえている姿は異なってるのか。しかも、十万人の人がいれば、その十万人がそれぞれにわたしとはこういう人間だと認識している姿や人柄が存在するわけだから、十万通りのわたしがいるということなんだ。」
主人公はなんとかして、他人が見る自分の姿を我が目でとらえようとするのですが、鏡を見ても写真を見ても、鏡を見る時点、写真に撮られることを知った時点で、自意識が入り込んでしまうために、他人が見る自分の素の姿とは別物であることに気づきます。主人公は高利貸しであった父親が亡くなったあと、仕事は父親の代からその補佐をしていた二人に任せて、その収入で妻と暮らしていたのですが、人からどんなふうに見られているかを意識しすぎるようになり、「あいつは高利貸しだ」という世間の自分に対する認識や、妻や高利貸しの仕事に携わる二人の自分に対する認識を覆そうと躍起になります。
挙げ句の果てに、「高利貸し」というレッテルから解放されようとして、高利貸しは廃業にすると仕事を担当する二人にも妻にも言い渡します。その結果、それでは困る二人や妻が高利貸しを続けるために主人公が正気を失ったことにしようと画策していることを、妻の長年の友人である女性と会って知るのですが、二人がいい仲になりそうというところで、この女性が主人公を銃で撃ちます。そういう思わぬ展開があったために、自分は気が違っていないことを証明してもらおうと相談していた教区司祭の判断によって、主人公は「高利貸しをやめて、貧しい人たちが暮らすことができる施設を作り、その施設を運営していくために全財産を寄付する」ことになります。
Perugia, Umbria 10/3/2024
他人が自分の容姿をどんなふうにとらえているか、自分という人間をどう考えているか。主人公がただそれだけを事あるごとに思い悩む、その懊悩ばかりが小説全体の最初の3分の2、あるいは4分の3でつらつらと語られています。鏡を見るときや写真の撮影に臨むときには、もうそこで鏡に映る自分や写真に写る自分は、他人が見る自分ではなくて、自分が自分を意識した上での写真になってしまうという考察は、おもしろいなあとは思うのですけれども。人が自分をどう思うだろう、人の目に自分の姿はどう映るのだろうということは、あらゆる人が気にするところではあると思いますが、それにしても自意識が過剰で話が前に進まないなあと思って読んでいたら、特に妻の友人である女性が登場してから、あれよという間に話が次々と思わぬ方に展開していくので驚きました。
そうして最終的に、自分を撃った女性を無罪とするために、教区司祭の言葉に従った主人公は、すべてを失って何者でもなくなったおかげで、その日その日に生まれては死んでいくような心持ちで、自分自身にとってさえ「これが自分だ」という意識を持って悩むことなく、周囲の風景や自然を細やかにただ観察して感じ、自分もその大いなる宇宙や自然の中の一部なのだという姿勢で生きていくこととなり、豊かな暮らしや家族は失っても、悩むこともとらわれることもない自由な境地で生きていくようになります。
おそらくはこの作品を読まれる方はあるまいと、筋をざっと書いてみました。
ピランデッロの作品は、いくつかの小説や戯曲についてはイタリア文学の授業で学び、小説、『Il fu Mattia Pascal』を読んでおもしろいなあと思ったのですが、そう言えば、『Il fu Mattia Pascal』も、主人公の運命や筋が奇想天外で、けれども物語全体を通して、社会や人というものについて読み手に深く考えさせます。
人の目ばかり意識したり、自分のことばかり考えていないで、もっと目を他の人や大いなる自然や社会に向けること、その中の自分なのだと考えて肩の力を抜くこと、一方では社会に対して責任を持つことの大切さ、そういうことをこの小説から教わったように思います。
ペルージャでは今日も朝からずっと雨が降り続けました。写真は、昨日庭に行ったら花がすべて開いていた、
種から育ったヒヤシンスの花と、花壇のスノードロップのつぼみです。小説の最後のページの自然描写、情景描写が細やかで、夜明けの空の様子や目に入る草の色などを繊細にとらえて述べる様子が、それまでの数百ページとはがらりと変わっていて、その夜明けの描写に、ふと『枕草子』の「春はあけぼの」が重なったほどです。意識を変える、とらえ方を変えることによって、目に映る風景やそれを感じる心も変わっていくということを、それまでとの叙述の違いで作者は表現しようとしたのでしょうか。そんなふうに最後の2ページに、自然に注がれる視線と心が描かれているので、この花の写真を載せてみました。