類いまれなる腕を持ちながら、自動ピアノに合わせて演奏するように言われて、人間の自分は機械に合わせて音楽を奏でたりはしないと、演奏をきっぱりやめて極貧の生活を送るバイオリン奏者。
「わたしは仕事のときには頭も心も魂も必要としない。映画を撮影するカメラが機能するように手を添えるだけ、ただわたしの手だけが必要で、そのカメラが撮影できるように手を動かす、ただそれだけなのだから、機械のために働いているのだ。」と語る主人公。
夏目漱石と同じく1867年に生まれたイタリアの作家・劇作家、ルイージ・ピランデッロ(Luigi Pirandello、1867〜1936)が1915年から1916年にかけて、まずは雑誌に執筆し、まもなく若干の修正とともに本として発行された小説、『Quaderni di Serafino Gubbio Operatore』(当時の題名は『Si gira...』)で、ピランデッロが、主従が転覆しかねない人間と機械の危うい関係に早くも気づき、主人公をはじめとする登場人物の思いや行動を通して伝えていることに、驚きました。
Gubbio (PG), Umbria 29/7/2023
人間の暮らしをよりよくするために、人間が使うために作られたはずの機械が、人間を疎外し、人間に危害さえ与えるようになるかもしれないことは、後にチャップリンの『モダン・タイムズ』やキューブリックの『2001年宇宙の旅』、あるいは松本零士の『銀河鉄道999』などでも描かれていますが、そういった問題に、産業革命のさなか、機械の利用が大々的に行われるようになったとは言え、まだまだ、機械が人間の役に立つ道具、文明や経済を発達させる原動力と考えられていたであろう時代に、早くも思い至っていたとは。
今年の1月からラジオの放送がきっかけで、ピランデッロの小説を読み始めたわたしは、
3月にこの小説を読み終えたあと、ピランデッロの小説全集をぱらぱらとめくっていて、『Quaderni di Serafino Gubbio』という小説があることに気づき、「シチリアの作家であるピランデッロの小説に、ウンブリアの町であるグッビオが出てくるとはおもしろい。いったいどんなふうに描かれているのだろう。」と、興味を持って読み始めました。
このとき、もし目にした題名が『Quaderni di Serafino Gubbio Operatore』であったなら、このグッビオ(Gubbio)が地名ではなく苗字だと分かったと思うのですが、わたしが持つ全集の小説では題名が『Quaderni di Serafino Gubbio』となっていて、グッビオなどという姓はこれまで聞いたことがありませんでした。そうして、このグッビオが、町の名前ではなく語り手である主人公の苗字だと分かったときには、すでに物語に引き込まれていたので、そのまま読み続けました。
と言っても、特に冒頭では、奇想天外な登場人物や人生のありようが語られていて、現実世界からあまりにも離ていると感じながら読みました。おそらく日本語に訳されてもおらず、読む方もいらっしゃらないことでしょうから、昨夜読み終えてまだ気持ちの整理がつかないままに筋や内容にも触れるのですが、最後の最後になってあまりのなりゆきに愕然としました。
幼い頃から男性に虐げられて育った美しいロシア人女優、ネストロフとの出会いによって、人生が狂った二人の男性。そして、その二人と女優の死。
主人公、セラフィーノ・グッビオの若き友人であり、才能ある芸術家であったジョルジョ・ミレッリは、ネストロフと婚約したものの、彼女が妹の婚約者、アルド・ヌーティと関係を持ったと知って自殺を遂げます。ヌーティはけれど後年、この自殺について「ぼくらはジョルジョの結婚に反対で、結婚するに値しない浮気性の女性だと彼に言い、彼も承知の上で、ぼくの口説きに落ちるかどうか、試してみようということで事に及んだのに、その結果自殺をするなんて、それこそぼくに対する裏切りだ」と、主人公に語ります。そしてネストロフの現在の恋人が本来は演じるはずだったのに拒んだ、檻の中に入って虎を銃殺するという映画の役を取って代わり、虎ではなくネストロフを撃ってその命を奪い、自らは虎に襲われて死を遂げます。そして、その一部始終を撮影し続けた主人公は、あまりの衝撃に永遠に声を失います。
小説は、ジョルジョは実は彼女に真に恋をしていたのではなく、芸術の対象として崇拝していたのだと語り、アルド・ヌーティの言葉は嘘で本当はジョルジョを裏切っただけだと読者に思わせるように書かれているのですが、この小説は主人公が一人称で語るという体裁を取っているため、語り手である主人公がそう思ってそう語るのであって、実は本当のところはどうなのか、読者には結局分からないままです。そう言えば、小説の最初の方で主人公自身が、今でもまだ自分でも理解できないことが多いけれども、今はだいたいこういうことだったと思うようになったところを書いてみるつもりだと語っていました。ということで、ひょっとしたら、「わたしたちはそれぞれが自分の目と耳に入る情報や自分の直観などから、人や人間関係、状況について、こういうものだと判断して信じ込みがちだけれども、実はそれが本当とは限らない」ということも、作者はわたしたちに伝えようとしているのかもしれません。
物語全体の筋やさまざまな事件、人間関係よりもむしろ、随所に描かれる主人公の人間と機械、あるいは人間と動物についての考察の中に、心に響くものが多かったようにも思います。主人公たちの発想や感覚からすると、現代のわたしたちは、機械を使っているのだろうか、それともむしろ使われているのだろうかと、そんなふうに考えさせられる考察や描写が多々ありました。小説の最後で、声を失ってしまった主人公が思いを寄せ続けていた若い女性との恋が実るかもしれないと、その可能性も感じられることに、せめてもの救いが感じられますが、それはわたしがそう感じるだけかもしれません。今日は夕方、ポプラの綿毛が舞い飛び、野バラの咲くいつもの散歩道を、この小説の内容や、ブログにどう記事を書こうということを思いめぐらせながら歩きました。
写真は、この小説の舞台になっているのではないかと勘違いしていたグッビオを、2023年7月に訪ねたときに撮影したものです。
このピランデッロの小説の後半では、映画の撮影現場が舞台となっています。最後にグッビオを訪ねた去年の夏、たまたま映画俳優バッド・スペンサーとテレンス・ヒルのファン大会が行われていたのも、今となっては単なる偶然ではなかったようで、なんだか不思議です。
Articolo scritto da Naoko Ishii
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